2013年9月9日月曜日

あゆみ(通信票・通信簿)の所見を書く

私には、絶対のこだわりが一つだけある。

【悪いところは書かない】

ということだ。

子どもたちには、笑顔で「はい、あゆみ!」と言って、
保護者に渡せるようにさせたい。

「課題を伝えてもらわないと……」というのも一理ある。
しかし、他の方法でも伝えられる。
その子の課題なんてそうそう変わるものではない。
個人面談で十分ではないだろうか。

記録に残ると、言葉で言われるよりも印象深い。
だから、良いことの方を書きたい。

「あゆみ」にも成果と課題をというのも分かるが、
そんなにかしこまらなくても……というのが正直なところである。

よく、「中学生になったら成績がこんなに悪いなんて」という
話が持ち出され、さも小学校が甘いように言われる。
それは違う。

中学校に入ったら、もう小学校とは無縁なのであって、
中学校での頑張りの結果なのである。

何でもかんでも、前段階の「小学校が……」と言われたものでは
たまったものではない。

逆を言えば、「小学校ではできるようにさせたのに、中学校では
一体どんな教育をしているんだ」ともなる。

そう言う人がいないのが、よくよく考えてみれば不思議である。

2013年8月6日火曜日

運動会1年生演技の曲を決定!

いきものがかり

 1 2 3 ~恋がはじまる~



・曲が4、5分(演技全体は8分の制限時間)
・アップテンポ
・CMで流れている(カルピス)
・タイムリー

以上の要素があって決めた。

振り付けはこれからである。

『教育技術』誌では、運動会特集でDVD付きで発売されている。
それもいいのだが、オリジナリティを発揮したいのは、自身の性分(^^;)

他校ではどんな曲を選んだのだろうか。

2013年8月4日日曜日

幼稚園指導要録・保育所児童保育要録

昨年度から学籍を担当している。
担当になったからには、校内で一番学籍に詳しくなりたい。

何せ大量の公簿を扱うのだから、法令を蔑ろにはできない。


★幼稚園・保育園は要録を小学校に送付する義務がある。


この点を把握していない関係者は意外に多い。

保育所は「保育要録」と呼ぶ。
保育所保育指針の平成20年の改定に基づく。

幼稚園は「指導要録」である。
幼稚園は教育機関であるから、学校教育法に基づく。
要録送付は、

【学校教育法施行規則第24条・第28条】

に明記されている。


小学校入学後、転出があれば、幼稚園・保育園の要録も送付せねばならない。

効果のある指導は記憶に残る

もう深夜。
今日(8/3)は勤務校の校庭を会場にしての地域のお祭りであった。

卒業させた子たちは、卒業1年目だからか、
かなりの数来ていた。
いつまでも「先生!」と呼んでもらえるのは、
この仕事をしていてよかったと思える瞬間だ。

自身の利害関係ではなく、
それを越えた「つながり」なのである。

卒業生の保護者何名かとも話をした。

やはり、意図的・計画的に行った教育というのは、
保護者の記憶にもはっきり残るものである。

・ちゃんと座っていられた
・字が上手になりそう
・計算をきちっと書けるようになる

「先生のクラスならば……」とこう話題に上った。

経験を重ねるごとに、全ての教育活動が、
意図的・計画的・有機的にさらになるようにしていきたいものだ。
久しぶりに、卒業生・保護者と話せて元気をもらった。

2013年7月27日土曜日

ベテラン教師から常識を学ぶ

月曜日に職員室のワックスがけをするというので、
昨日金曜日に職員室の机を出した。

出張の人、年休の人、職専免の人と色々いたので、
全員でというわけではなかった。

そこで、明らかな差があった。

若手の多くは、机上こそ片付けられていたものの、
引き出しは全て入ったままであった。

中堅の多くは、一番重い引き出しだけが抜かれてあった。
(これだけでもだいぶ楽なのであるのに、若手ときたら……)

だが、今年度いっぱいで定年退職の教員は違っていた。


『全ての引き出しが抜かれていた』のである。


運ぶ職員にとってはかなり楽になるのと同時に、
そこまで思いを馳せられるベテランの心意気に感動した。

そういう心意気を若手は学んだのだろうか。


私も、何歳になってもそうでありたい。驕ることなく。

2013年7月25日木曜日

一部中学校教員の力量不足(2)

少し前、小中交流の一環で、中学校の授業を参観した。
勤務校を含め、主に3つの小学校から生徒が進学する中学校である。
この授業参観は、その3つの小学校の先生全てが参加する。

中学校の授業の、悲惨な状況を目の当たりにすることになった。


(1)授業が下手である。

教師が淡々と説明のみの講義。
私は、黒板にばんばん書かせたり、班で相談させたりもした。
それが、中学校入学の途端、その有り様である。


(2)特別活動が小学校低学年並である。

ある教室の後ろの壁面に、模造紙が6枚連なっている。
係のポスター(?)の掲示だ。
見ると、「黒板係」「電気係」がある。
こんなのは、小学校低学年で行うことだ。
小学校低学年は、当番活動=係活動で、働くことの意義を体得させる。
だから、これはこれでとても大きな教育的意味があるのだ。
しかし、中学校がこれでは呆れるばかりだ。
去年の6年生では、29の係ができた。
黒板係、電気係などない。どれも文化的・創造的なものだ。
よく恥ずかしくもなく、あんなにでかでかと模造紙に掲示できるものだ。
しかも模造紙が、中学生らしく、工夫で紙からはみ出しそうなくらい、
びっしりと書いてあるならまだ分かる。
模造紙そのままのサイズなので大きすぎて、空白が目立つ。


(3)「小中一貫」のための「公開」であることを意識していない時間割。

小中一貫のための取組だから、保護者の授業参観と違い、
我が子の様子を見に来ているのではない。
ところが、授業一覧を見ると、

「社会:テスト返却、直し」

なんていうものがある。意味が分からない。
その教科担当も、教務主任も、管理職も意識が足りなさすぎる。
そんなの公開されても、何の参考にもならない。
予め日時は決まっているのだから、時間割の変更くらいできただろう。
中学校側の認識を大いに疑う。


勤務校区に限らず、中学校の先生は、
小学校の先生より授業が下手な人が多い。

それを指摘すると、彼らの言い分は「受験のために……」である。

一部中学校教員の力量不足(1)

1年生を担任してこそ「一人前」だが、
「華」はやはり6年生担任だ。

だから、卒業後、保護者なり卒業生なりメッセージをもらうことがある。
ほとんどは、「先生のクラスでよかった」というものだ。

しかし、昨日、不安な電話がかかってきた。
卒業生の保護者である。
決して理不尽な要求をするような方ではなく、
「うちの子がいつもすみません。」という
親として当たり前の姿を見せてくれる方だ。
その卒業生は4年生と6年生で担任した。

「小学校では、高学年になって勉強をよく頑張っていたし、
テストの出来も良いものばかりではないが、悪くはなかった。」
「中学校に入って、部活動も始まり、勉強が急にできなくなった。」

これが俗にいう「中1ギャップ」である。
個人差はあれど、これだけでは私に電話などしてこないだろう。
案の定、卒業生のことではなく、中学校の対応についてであった。

「学校生活のことで、担任の先生や顧問の先生と話をしたいが、
いつも忙しそうでつかまらない。だから、伝言をお願いしても、
何の連絡もない。」

学校生活で指導が必要な生徒がいれば、担当教科外ではどのような
状況なのか、三者面談前に情報収集するのが、担任としては当然の仕事だ。
親と一緒に教育するのだから、事前準備が必要なのは明白だろう。

しかし、その担任は、そのような事前準備は一切無く、三者面談の場で、
生徒(卒業生)に「他の教科はどうなんだ?」と問い詰めたのだという。
その保護者は、どうしてよいか分からない状態になったそうだ。

こういう中学校への不満で、私に相談の電話があった。

もちろん、こういう教師の対応は許されるべきものではない。職務怠慢である。
しかし、私は所詮小学校教員。
その子の状況を改善するに力を貸すことはできない。

「担任の先生にもう一度連絡をとってみてください。
だめそうなら、学年主任や副担任など、学年の他の先生に連絡してみてください。」

やはり、中学校生活でのことだから、中学校の先生につなげたかった。

算数「問題解決型学習」子どもたちの悲痛の声

今日、6年生の先生から、算数の教え方についてお話を聞いた。
その先生は、4年生のときから持ち上がっている。
ちなみに、勤務校は毎年クラス替えがある。

あるクラスが、
「3人1組での教え合い学習」をしているのだという。

お話を伺った先生のクラスに5年生のときにいた子が、
6年生では教え合いのクラスになった。

『先生、今度のクラスで、算数100点取れる気がしない』
と漏らしたそうだ。

逆の子もいる。
5年生のときに教え合いのクラスで、
6年生になってその先生のクラスになった子だ。

保護者が
『今度のクラスでは、勉強をきちんと教えてもらえるんですね』

算数の問題解決型学習が、「思考力・判断力・表現力」を振りかざして、
一部で蔓延っている。

だが、生の声は生かされていない。

私は、もちろんそんな授業はしない。

先の春の卒業生のある女子。
算数があまり振るわなかった子だ。

最後、保護者の計らいで、子どもたちからの寄せ書きをもらった。

その子は、
『先生の授業は分かりやすかったです』と書いてあった。

100点をあまり取らせてあげられなかったが、
その子には、(社交辞令かも知れないが)勉強の意味があったのだろう。

「事実」で教育は議論されるべきだ。

2013年6月30日日曜日

フラッシュカード(算数・10の補数)

しばらく更新しなかった。(×できなかった)
行事や提案が続いたため。
6月で一段落。

算数の時間は、毎回、

①百玉そろばん
②フラッシュカード

で始まる。

今回は「フラッシュカード」

なかなか好みの製品がなかったので、とりあえず自作した。

指導のねらいは「10の補数が言えるようになること」である。
繰り上がりの学習につなげるための、継続的な取り組みだ。

「9」のカードを見たときに「1」をイメージできるようになればよい。

そのために、

・1人ずつ言わせる
・列ごとに言わせる
・手をたたかせる

という工夫をする。

自然にイメージできるようになるまで、続ける。

繰り上がりのあるたし算はしばらく先だから、
今からでも遅くない。

2013年5月12日日曜日

家庭訪問のポイント

家庭訪問や個人面談の時期である。

【話を聞いてくれる先生という印象をもってもらう】

私はこれに気を付けている。


実際の子どもの課題云々はまだだ。始まって1ヶ月である。
保護者との関係づくりがメインである。


【○○さんから、□□さんが学校生活を送る上で、私が覚えておいた方がいいことや、
学校に伝えておきたいことはありますか。】


私はこのせりふで始める。

だいたいは母親と話す。
偏見かもしれないが、傾向として、話し好きの女性は多い。
だから、最初に話してもらう。

私が話すのは、一通り話し終わってもらってからである。

日頃の学校生活で、私からは電話したり、学級だよりを発行したりと、
私が発信する機会は多い。

家庭訪問・個人面談は、保護者が発信できる数少ない機会である。


保護者が特にないようであれば、アレルギーだとか、
喘息だとかいう健康面で配慮しなければならないことを伺う。
時間の余裕があれば、過去の登園しぶりも聞く。

ここまで聞けたら終わりである。

時間が早まってもいい。
遅れた場合の調整は難しいが、早まった場合の調整は簡単である。
待てばよい。
なんなら、早めに次に伺って「もうよろしいですか?」と尋ねてもよい。

今年度、一度も時間をオーバーしていない。
どの家庭も、設定した時間帯内で収まっている。

「時間を守る先生」ということも印象づけたい。
(ちなみに、1回目の懇談会も予め宣言した定刻に終了した。)

2013年4月24日水曜日

1年生も熱中する音読指導

学年共通として、まだ「宿題」は出していない。
しかし、音読なら手軽に取り組めるので、
宿題ではないが、「自学」のような形で取り組ませている。

まずは、授業の音読指導

(1)追い読み
(2)交代読み
(3)列読み

これを基本として取り組んでいる。

その際、
タイトルの横に○を10個書かせ、
1回読むごとに○を1つ赤鉛筆で塗っていく。

「おうちで塗ってきてもいいよ。
足りなくなったら、足してもいいよ。」

これだけで、大多数の子が読んできた。

中には、100を超える子もいる。

もちろん、授業中に最低10回は読む。
これで、全員が「全て塗った」という達成感がある。

今は、暇さえあれば競うように塗っている。

国語の指導の基本は、
教材文をすらすら読めるようになることである。

1年生は、教材文自体が短いから、有効である。
もちろん、学級だよりでも紹介した。

2013年4月18日木曜日

1年生算数「なかまづくり」(第2時・東京書籍)

1対1対応の学習である。

線と線で結び、多少・同数を判断する。
ちなみに、どれだけ多いか少ないかも考えさせる。

線と線で結ぶことが基本だ。
次のページの、おはじきによる間接比較は「おまけ」である。
だから、ここはとばした。

なぜなら、「おはじき」は扱いが難しく、
学習以前に扱いで困難が生じるからだ。

あとは計算スキルをやって終わり。

あかねこ計算スキルは、
みんな簡単簡単と言う。

少しでも学習への抵抗をなくしたい。

今日は、教科書忘れが1名。
半泣きであった。
早めに貸出用の教科書を仕入れたい。

2013年4月16日火曜日

スキルの学習の仕方を説明する

今日から「ひらがな」の学習を始めた。

システムはとにかく漢字と同様に、

「指書き」→「なぞり書き」→「うつし書き」

これでとにかく、「丁寧さ」をアピールする。


今日は、時間がなく、個別評定の場がなかった。
次回、設けようと思う。

2013年4月15日月曜日

1年生国語「はる」(光村・扉の詩)

今日、音読のシステムを授業で伝えた。

タイトルの横に、○印を10個書き、色を塗るというものだ。
家で読んだら塗ってもいいんだぞ、ということも伝えた。

何回も声に出す。
短い詩だから、読んでは塗っての作業の繰り返しが心地よい。

初めの音読指導であるから、
追い読みを8回、
交代読みを2回行って、10個塗れた達成感を味わわせた。

その後、2ページ。
絵にある言葉をどんどん隣と言い合わせる。

もちろん滞るペアがある。
おとなしい子同士の組み合わせだ。
そういうところにはすかさず入って、問答しながら雰囲気をつくる。

そうやって、言葉を全体に聞いて読み、授業を終えた。

ソーシャルスキルカルタ、いつやろうか……
今週末には授業参観があるので、そこまでには慣れさせたい。
明日にはやろう!と思う(笑)

2013年4月14日日曜日

6年生のアドバルーンにも毅然と対応する

1年生担任なので、6年生がお手伝いに来てくれる。
これには、本当に助かっている。

ちょっとしたことも、私一人で全て見るより、
6年生に協力してもらった方が遥かに良い。
そして、6年生も最高学年の自覚が芽生える。

そういう意味では、勤務校のように、
1年生と6年生のフロアが同じというところはメリットだ。
(学習に関してはデメリットがある。)

その中で、私のクラスに来た6年生がアドバルーンを上げた。
私が1年生に話すときの真似をしていたのだ。
1回目は聞き流していたが、
2回目は私の聞こえるところで言っていたので、
目をじっと見つめて黙らせた。

翌日、その子が
「俺が教えた通りに、1年生ができていた!」
と嬉しそうに報告してきたので、
「それは教え方がいいからだ!さすがだ!」と褒めた。

これで終了。

これでもう教師が自然に勝ったことになる。
褒めてくれる先生に対して、ましてや6年生が
向かってくることはないだろう。

私の人となりをあまり知らない子だが、
これで廊下で会ったときにも自然にあいさつができる。

教師の信頼関係作りのチャンスはいくらでも転がっている。

2013年4月13日土曜日

1年生、移動の指導

授業中に校内を移動するときがある。

他学年の授業の邪魔をしないマナーがあるから、
同然「無言」で移動することになる。
「こそこそ話す」ことも許してはならない。
少しでもこそこそが聞こえたらやり直しだ。

しかし、1年生には「静かに移動しないさい」では通じない。
「こそこそ話す」ことも、彼らには「静か」な状態であるからだ。

そこで3点の指導をする。


(1)「一言も話してはいけません。」

「静かにしなさい」より突っ込んだイメージがもてる。


(2)「忍者で移動しなさい。」

こういう「例え」が様々な場面で1年生には必要だ。
「忍者」なので、足音も静かになる。
「ぬきあし、さしあし、しのびあし」なんてこそこそ言いながら
移動するところはさすが1年生(笑)
こういうところは微笑ましく、やり直しをするまでもないだろう。
きっと、いつか言わなくなる。そういう直感だ。


(3)「歩いていることが、他の人にばれてはいけません。」

扉の開いた職員室前を通ると、
「先生、ばれてないよ!」なんて嬉しそうに言う(笑)
さすが1年生(笑)
しかし、これも具体的なイメージでもって移動できる。


移動に限らず、様々な場面で1年生の指導は、
たくさんの「技」をもっていなければならない。
これからも貪欲に学びたい。

2013年4月11日木曜日

1年生、作業の指示

こればかりは、何年生担任だろうとも変わらない。

「丁寧に」
「丁寧な子は賢くなるんだよ」

これに尽きる。

字形が多少歪んでいても、
色の塗り方にむらがあっても、
やはり丁寧なものは、じっくり見るに値する雰囲気を醸し出す。

2013年4月10日水曜日

百玉そろばんを始める

1年生担任が正式に決まって、
即注文したのが「百玉そろばん」だ。

セミナーなどで体験はしていたのだが、
やはり実際の子どもを目の前にしてみないと分からない。

今日、初めての算数があった。
そこで、百玉そろばんから始めた。

(1)順唱(5まで、10まで)
(2)逆唱(5から、10から)
(3)5の階段
(4)5の合成
(5)5の分解
(6)10の階段
(7)10の合成
(8)10の分解
(9)かくし玉
(10)おこづかい

細かい方法については省略する。

どんなに下手でも、数の唱え方はばっちり言わなければならない。
私のクラスでは一度言っただけで、そして数回練習するだけで、
全員が正しい唱え方を身につけた。


(1)順唱

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10

いち に さん し ご ろく しち はち く じゅう


(2)逆唱
10 9 8 7 6 5 4 3 2 1 0

じゅう ★きゅう はち ★なな ろく ご ★よん さん に いち ★れい


「4」「7」「9」は、順唱と逆唱とで数え方が異なる。
そして、「14」は「じゅうし」、「19」は「じゅうく」と、順唱が基本となる。

「0」は、カウントダウンの感覚で、絶対に「ゼロ」と言う子が多い。
しかし、日本語で数えるので、「れい」だ。

あとは、玉がカチッと鳴ってから、数を唱える癖を身につけさせる。

2013年4月9日火曜日

1年生の整列指導

だいたいどこの学校でも、出席番号順に、
入学式で入場する。

「これを番号順と言うんだよ」と教える。
そして、何度かさっと並ぶ練習をする。

次に、校庭への移動だ。
つまり、授業時間中の廊下の移動である。

なぜ、うるさくしてはいけないかと指導する。

その意味は、1年生でも十分理解できる。

しかし、ここは毅然とした態度で指導する。
一人でも話したらやり直しだ。

高学年ならば、
「やり直し」
「出発します」
でいいのだが、
ここは1年生。
頑張るぞ!という思いをもたせることが重要である。

「みんなならきっと次はできるよね!」
と励ましてから連れて行く。

別人のように静かに移動できた。

2013年4月6日土曜日

1年生、姿勢の指導

入学式の後の学級指導にて指導した。

「ピタ」『両足を床につけます。』

「ピン」『背筋をピンと伸ばします。』

「グウ」『机と体の間は、グウ1つ分です。』

もう合い言葉として定着した。
月曜日には「テスト」と称して復習する。

1年生って「テスト」という言葉がやたら好きらしい(笑)

1年生担任、春休みの準備

今年度は1年生担任。
6年生「出口」の担任から、一気に「入口」の担任へ。
初めて1年生を担任する。

同僚曰く
「1年生を経験してこそ、教師として一人前」
だそうで、この機会をありがたく思っている。

昨日は入学式だった。
式自体は滞りなく進む。
問題は、式後の「学級指導」の時間だ。

このことを考えるだけで、
4月1日からなかなか寝付けない日が続いた。
どんな言葉をかけるのか?
そもそも、1年生とはどのような状態で入学してくるのか?
何ができて入学してくるのか?

そんなことをあれこれ考えると、寝付けない。

しかし、子どもの顔など分からない。
幼稚園、保育園からの情報はあるにはあるのだが、
「小学校入学」という大きな節目に、
「今度は頑張ろう!」と思っている子もいるかもしれない。

そう考えると、その情報に縛られすぎるのも、互いに不幸だ。

とにかくできることは、

1 本をたくさん読む

2 1年生担任経験者から、心構えを伺う

この2点だ。


本屋に行き、1年生関係の本を、予算の許す限り手に取る。
中身など見ない。
それを読んで、1年生の教室の様子をイメージする。

そして、1年生担任経験者から、色々な話を聞く。
そうすると、実態もかなり明確に見えてくる。
教師というのは、教える職業なのだから、
同僚同士教え合うのも気兼ねなくしてくれる。

「こういう失敗があったから、こうするとよい」ということをたくさん伺った。


あとは「名前を覚える」

あまり慣れていないものだから、定着に3日かかった。
学級指導では、下校時刻の都合、呼名できなかった。
しかし、名前を把握しておくだけで、
式の間、どの子がどういう様子で式に臨んでいるのかが分かる。


今日は、1年生のセミナーに参加してくる。
こういう情報収集も貪欲に行いたい。

2013年4月4日木曜日

出会いの準備

横浜は明日、子どもたちと出会う。
4月に入って学年が正式に決まり、心血を注ぐべきは、
子どもたちとの出会いをいかに決めるかである。

1 名前を覚える

2 先生も「はいっ」と見本となる返事をする

この2つに集約できるだろう。
横浜では、始業式後、すぐに解散だ。
入学式があるからだ。
だからこそ、この2点でばっちり決めたい。

今日はあまり眠れなさそうだ。

2013年4月3日水曜日

学年のノート、書類を整理する

今年度の私の学年は、次のような人員配置である。

学級担任2名+学年主任1名(教務主任兼務)

私は学級担任。
通常、学年のノートや書類、ファイルは学年主任が管理するが、
さすがに、教務主任と兼務では申し訳が立たない。
だから、私が(暗黙の了解で)管理している。

学年だよりも学級担任2名で輪番制。

これくらいはしないと、学校全体の歯車が狂いそうだ。

学年主任も、一般的な学年主任と異なり、
教務主任と兼務であるから、
学年主任に従来通り委ねることも慎重に行いたい。

中学校のような人員配置であるが、
次第に効率の良いやり方を見つけていきたい。

(何かアイディアのある人はコメント願います。)

2013年4月2日火曜日

名前を覚える

昨年度、初めて名前を覚えて始業式に臨んだ。
毎年クラス替えをしているが、3年目の付き合いの子たちでさえ、
名前は全員言えたが、スムーズにはいかなかった。

卒業生を送り出したため、今年度は必然的に新しい出会い。

名前を昨年度よりも覚えてバッチリ決めたい!

2013年4月1日月曜日

教材選択

4月1日。
学級経営の1年を左右すると言っても過言ではない「教材選択」の日だ。

国語・算数のスキルもテストも、
同僚の意見を組みつつ、私の採択したかったものになった。
意外と「こだわりはない」と言う人は多い。
これはこれでどうかと思うが、
ならばと自分のこだわりを主張する手はない。

その他、ベテランの先生方に聞いて、
学年会計の何となくの見通しはもてた。
後でもとうと思っても、結局は振り出しになる。
今この時の感覚を忘れるからだ。
「感覚」は「鈍る」ことが前提だ。

「黄金の3日間」で一気呵成でつくっていくが、
その下準備も一気呵成でつくって、気分だけでも軌道に乗せたい。

身銭を切る

「プロ」として質を高めるなら、やはりそれなりの投資が必要だ。

本だったり、物だったり、セミナー参加だったり。

その分だけ、じわじわと蓄えられていく。

向山洋一氏が、
「インターネットは便利で情報量が多いが、その分クズも多い。
しかし、本は違う。考え方云々の問題はあるが、考え抜かれた情報だ。」

のようなことを言っていた。

ここ数週間、そしてこれから1ヶ月くらいの出費は痛い金額だ。
しかし、必要なのだ。

それくらいのことをして、それなりの教育の入口が見えてくる。

民間企業に勤めている人も、
本を読んだり、必要な用具は自前で揃えたり、セミナーに参加したりしている。

2013年3月31日日曜日

体育の服装(教師)

体育の服装は、派手な方がよい。

特に校庭での体育となると、
教師がどこにいるのか分からなくなる。

時に、教師は判定役になる。
そのときに、どこにいるのか分かる方がよい。

だから、私の服装は少し派手だ。
同僚から、「駅伝選手みたい」と何度も言われた(笑)

教室での授業では、刺激的な色は避けるが、
体育は別だ。

2013年3月29日金曜日

「編成」と「編制」

「へんせい」には、2つある。

「編成」と「編制」

学級「へんせい」は……「学級『編制』」である。

列車などの10両「へんせい」は……「10両『編成』」である。

どうでもいいか?
いや、教務や学籍ならば知っておいた方がよい。

年度末最後の整理と新年度の準備

明日から土日なので、今日で実質年度が終わる。
だから、今日はたくさんの書類を整理整頓した。
終えたあとの引き出しの軽いこと軽いこと(笑)

必要最低限のものを残し、きれいさっぱり。
月曜日に備える。
(処理しきれていない人は、土日やった方が気持ちは良いだろう)


そして、午後は新年度の準備に勤しんだ。
とりあえず、学年が発表されたので、
その学年に関する書籍を買い込む。

1万5千円ほど。まあ、最初は仕方がない。

今日からこれらの本を読み、ノートにまとめていく。

できることを、できるところまでやる。

2013年3月28日木曜日

卒業アルバムの服装

全てのスーツ、シャツ、ネクタイが異なっている。

教職員全員の集合写真、6年担当職員の写真、担任の個人写真、
クラスの集合写真ととりあえず決まっている写真で服装を変える。

こうすべきだというものでもないが、
こうしたいという密かなこだわりである。

おそらく気付いている子はいない(笑)
保護者はいるかな?

まあ、いずれにせよ勝手なこだわりではある。

ただし、子どもの服装が違うように考えている保護者もいる。

撮影時期の季節がずれれば心配ないが、
どうしても同じような季節に撮影する場合もある。

担任は精一杯、撮影日をずらすなどして、
服装が違うようにしたい。

教室の教師の大掃除

年度末。
卒業前に子どもたちに大掃除をさせたが、最後はやっぱり先生だ。

子どもたちではやりきれなかった部分もあるし、
きれいにしたが、この春休み途中でほこりが溜まった箇所もある。

次の教室使用者にはきれいな状態で

「○○先生の後の教室はいい」

と評判になるくらいきれいにしたい。

昨日は日直だったので、職員室に張り付いていた。
今日は天気も良く、絶好の大掃除日和だ。


意外と汚れていたのが、窓の下部である。
サッシも砂が入り込んで汚い。
濡れぞうきんで一拭きするだけで、見違える美しさだ。


たまに、
「これで次に引き継ぐのか?」
という状態の教室を見るときがある。

それでも、やさぐれず(笑)
自分がきれいにし続ければいつか気付くかもしれない、
と信じきれいにする。

2013年3月26日火曜日

「とりあえず同窓会」を設定する

卒業式の前週の金曜日。
学活で「同窓会」を設定した。

成人式後、よく中・高の同級生や部活仲間とは集まるが、
小学校の同級生と集まる機会など滅多にないことだ。

だから、ちょっとお節介かもしれないが、
こうやって同窓会を設定した(渡辺喜男氏の追試)。

決めることは2つ。

1 いつ行うか。(中学校卒業後はだめ。すぐすぎる。)

2 誰が中心となって行うか。


まず「1」について。

子どもからは色々出た。

(1)成人式後 …… お酒が飲める(笑)

(2)21歳になる年 …… 成人式後では早生まれの人は飲めない(笑)
だから、確実にみんな成人した21歳になる年。
(これについては、4月2日開催案と私の誕生日開催案が出た)

(3)17歳 …… 18歳では受験で忙しいだろうから。

(4)18歳 …… 6年生(12歳)を基準点としたら、1年生(6歳)の反対にあるから。

それなりに考えるものだ。
あれこれ検討し、21歳案が採用された。


誰が中心となって行うかは、こう付け加えた。

「先生はいつこの学校を去るか分かりません。だから、割と地元に残っているであろう皆さんの中から決めた方がよいと思うのです。」

名前だけになるかもしれないが、
幹事長と副幹事長それぞれ1名が決定した。


開催されるかどうかは分からない。
忘れてしまったら、別にそれでもよい。

ただし、こう企画してみることも楽しいものだ。
卒業時期ならではだ。

2013年3月24日日曜日

卒業式当日の黒板装飾

本校には、入学式の黒板装飾を含めた教室整備の係はあっても、
卒業式にはない。(今年度初めて気が付いた。反省に出そう。)

ふと、前日の放課後に教室に寄ると、
何やらメッセージが書いてある。

「卒業おめでとうございます」

という文字の周りを、黄色のチョークで、
雲のような枠で囲んでいる。

どうやら、急遽、5年生が書いたものらしい。

ここで迷った。

晴れの卒業をする6年生にしてみれば、
あまりに簡素で雑な装飾だ。

一方、5年生からしてみれば、
急にお願いされた割りに、大きく堂々と書いてある。

しかし、ここばかりは6年生の心情を優先して考えた。

彼らがこの黒板を見て、「卒業だなあ」と感じるかどうか。
担任の直感としては、否である。

だから、当日の朝、私が装飾を施した。
とはいっても、絵なるものが苦手の内に入るので、
イラスト集を片手に見よう見まねで書いてみた。

私にしてはなかなかの出来だ(笑)

当日、子どもたちは物珍しそうに黒板を見ていた。

やはり、当日の教室は特別感がなくてはならない。
今まで、多くのことを我慢して働いてきた6年生。
ここで報ってあげなくて、どこで報ってやれというのだ。

5年生には申し訳ないが、消させてもらった。
(ちなみに、隣のクラスの担任も同様に、
元々黒板装飾のアイディアがあったため、消していた。)

装飾なら装飾で係を設けなければならない。

2013年3月23日土曜日

卒業式の入退場の工夫

最も基本的なスタイルは、

担任が連れて入場 → 卒業式 → 担任が連れて退場

である。


こう工夫すると、さらに「旅立ち」の感じが演出できる。


【最後の退場は子どもたちを見送る】


最後の退場は、子どもたちで退場していく。
1組から順番にだ。
最後のクラスの子が保護者席を通ったら、担任団が中央に行き、礼をする。

このタイミングが少しだけ子どもとかぶる方がよい。
「子どもの退場のあとに、まだある」ことを分からせるためだ。

そうすると、だいたい担任団のところで拍手が大きくなる。
これが実に気持ち良い(笑)


退場のスタイルをこう工夫する意図は次の通りだ。

(1)担任が連れて入場するということは、まだ巣立っていないこと。
(2)卒業証書授与でもって巣立ちであること。
(3)巣立ったのだから、自分たちで退場する。
(4)その巣立ちを、担任団は「見送る」ということ。

2013年3月22日金曜日

卒業式練習での語り2つ

その1

【ステージを降りても、会場にいる何百人のうち、数人はあなたのことしか見ていません】


「卒業式」は、正式には「卒業証書授与式」といい、
紛れもなく、卒業証書をもらうことがメインの行事である。

ステージを降りるても、来賓に一礼したり、着席したりと動作がある。
そういうところで気を抜かないための指導だ。

この「数人」とは、当日来る「家族」のことである。
家族は我が子しか見ていない。
最後まで美しい立ち振る舞いができることで、家族は安心するのだ。



その2

【6年生として臨むのではない。「最上級生」として臨むんです】


「6年生」とは、1年生から数えて6番目の学年という意味に過ぎない。
卒業式には、その学校の「最上級生」として出席する。
その小学校を背負っているという意味を実感させたい。

この指導は、行事前にも言うことがある。

卒業式は、学年行事ではなく、学校行事である。
卒業生は、あくまで卒業証書を「授け与えられる」側だ。
主体ではない。
だからこそ、礼法が大事なのである。

2013年3月21日木曜日

卒業式の呼名は大きな声でする

火曜日、勤務校の卒業式であった。
4年生のときから担任していた学年であったため、
もう式の最後はぼろぼろだった(予定にはなかったのだが)。

卒業式の呼名は、ほぼマイクを通さず、
体育館の対角線上の一番端まで聞こえるほど大きな声でする。

マイクを通してもいいのだが、こちらの方が気持ち良い。

2013年3月2日土曜日

ある女子の変化(小6)

新出漢字の学習が終わった今、「日記」とまではいかないが、
毎日、お題を与えて文章を書かせている。

先日、「小学校6年生のころの○○先生(←私)」という題で書かせた。
本当は、私が小学校6年生の頃を勝手にイメージしてほしかったのだが、
「(児童が)小学校6年生のころ」の私、
つまり今年1年間の私について書いてくると間違える児童が何名かいた。

私の出題ミスといえばそれっきりだが、
それはそれで、私のことをどう見ているかさぐるきっかけにもなった。

そこで、ある女子の内容を掻い摘んで紹介する。

その女子は、今年初めて私のクラスになった。
(この学年は4年生から持ち上がりだが、今年初めて担任したということだ)

そこで、
「今までは適当に過ごしてきた」と自己を振り返り、

「○○先生のクラスで礼儀というものを教わった」
「適当な私たちに、あえて厳しくしていたと思う」

というような内容を綴っていた。

この学校に赴任したとき、校長に児童の特徴をずばり一言
「けじめがつけられない」
と言われた。

小学生なので、ある程度予想はしていたが、
中には想像を絶する光景に何度も出くわした。
そういう状況にもかかわらず、理解しがたい指導も度々目にした。

それを子どもたちは、自分のことを棚に上げるわけではないが、
分かっていたのだ。

「正しいことを正しいと言い、誤りを違うと言える先生」は
やはり子どもたちは見ているのだ。

2013年2月21日木曜日

「海の命」第1時

範読。そして意味調べ。

意味調べは、このようにノートに書かせています。
(もちろん、縦書きです)


・瀬 → p.○○

・こときれる → p.○○


意味を書きません。
意味を書くとなると時間がかかります。
こうすると、割合辞書が苦手な子でも、さくさくひきます。

私が小学生のときの国語の教科書にも、「海の命」がありました。
「おとう、ここにおられたのですか。」で訳が分からなくなりました。

大人になって改めて読んでみて、少し作品の意味合いが分かり始めました。

私自身も勉強です。

2013年2月20日水曜日

二重跳びリレーでの大逆転!

体育では、毎時間縄跳びの時間をとっています。5分間です。
「向山式なわとび級表」を用いています。
有段者はまだ現れていませんが、着実に力をつけています。

二重跳びが1回もできなかった子が、10回連続でできるようになりました。
後ろ二重跳び、交差二重跳び、あや二重跳びができる子も増えました。

級表に取り組んだら「二重跳びリレー」です。
男女が各1列に並びます。
男女対抗です。
これは、どういうわけか男女対抗が盛り上がります。
男女混合ではいまいちです。

もう3ヶ月を過ぎ、全て男子が勝っていました。
20勝はしたでしょうか。

ところが、今日、女子が初勝利を収めました。
劇的勝利です。

やってできないことはないのです。

2013年2月19日火曜日

机の上を空にしなさい!

これも、だいぶ使っている口癖です。

朝の会など、私の話を聞かせるときに言います。
机の上を空にすることで、話に集中させるためです。

物が乗っていると、
それをいじる子、片付け途中の子、
教室が何だか雑然としています。
話をしても、すぐに質問に来ます。

もちろん、聞いていない子に責任がないわけではないですが、
教師の指示の通し方にも問題があるでしょう。

私は、朝の会・帰りの会の開始前に言います。

「机の上を空にしなさい。」

整然とした雰囲気で始めます。

2013年2月18日月曜日

机整頓!

年明けからでしょうか、口癖になりつつあります。
もちろん、年が明けてから、クラスの環境が乱れ始めたわけではありません。

もっと子どもたちに整頓する気持ちよさを感じてほしいので、始めました。

特に、帰りのあいさつの前、全員が起立しているときには、毎日言います。
もちろん、その後下校するので、多少乱れはします。
しかし、「そういうふうにするものだ」というのを感じてほしいのです。

机が場所よりも前に出すぎると、
「出しゃばるな(笑)」と言います(笑)
『あ~あ、出しゃばっちゃった』と子どもは言います。

最近は「整頓!」と一言です。

もちろん、帰りは一番最後に教室を出ます。
乱れている机を直します。

次の日、やはり気持ちの良い、整然とした教室に入りたいですから。

2013年2月12日火曜日

全校合唱での一言

今日、英語活動・国際理解教室の先生お2人のお別れ式があった。

母国語でお話される場面もあったが、言葉は分からなくても、
なぜかその温かさは伝わってくる。
卒業を控えた6年生に向けてメッセージを寄せてくださった場面もあった。
ありがたいことである。

私がこの日は校歌の伴奏。
歌う前に雰囲気をつくる必要がある。

「伴奏は○○先生です。お願いします。」

と司会の児童に言われて、そのまま始めてしまうのは論外だ。

何のために歌うのか、どう歌うのかを簡潔に伝える必要があった。
歌う数分前に考えた言葉を全校に伝えた。

「全校でお2人の先生に会うのも今日が最後です。
その先生に校歌を聞かせます。
この1年間で、一番上手に歌いましょう。
体育館に声がたくさん響くように。
自分の声が跳ね返って聞こえるくらい、大きな声で歌いましょう。」

こんな内容だった。
結果、今まで体育館で歓迎式やら離任式やら修了式やらを行ってきた、
どの場面よりも大きな声で、体育館に朗々と声が響いた。

ピアノの蓋は全開。男の私。
今までは音量を抑えなければならない場面もあったが、
今日は一切なかった。

教師力を上げたいならば……

すぐに実践できることは数多ある。
(余談だが、ある教員は「数多」が読めなかった)

まずはインターネット。
指導案などいくらでも手に入る。
TOSSランドのように、教育に特化した専門サイトでさえある。
そこから情報を24時間仕入れることができる。
ちょっとしたネタをクラスで実践してみる。
そのときの子どもの目の輝きは忘れられないものとなる。
その積み重ねで、クラスが生き生きとしてくる。
実践を重ねるほど、その内容が整理され、精選され、
クラスの持ち味、その教師の持ち味になる。

インターネットを上回るのが本・雑誌だ。
教師にとって読書は必要不可欠である。
教師力を上げるため、知識・教養を高めるため。

もうすぐで年度替わり。
来年度分、雑誌の定期購読を4誌契約した。
(とりあえず、今の収入での精一杯)
カード決済のため、毎月のポイント分で、もう1誌を購読する。
合計5誌。なんとか教師としての最低ラインを超えた。
まずは、数だけでもこなすということも必要である。

本・雑誌には、そのときに必要としていなくても、
後々に生きる情報が盛り込まれている。
同じような内容を複数号で目にするため、
一種のサブリミナル効果かもしれないが、
それが自ずと自分の教育技術になるときでさえある。

正月には割と時間ができたので、本のジャンルを広げてみた。
その中でも、おもしろかったのが以下。


●菊池省三・関原美和子『菊池先生の「ことばシャワー」の奇跡 生きる力がつく授業』講談社、2012

 学級経営のドラマ。事実で示される教師力。討論のできるクラス。
 実践している先生がいると、自分も一歩でも近付きたいと気持ちが高ぶる。


●山口創『子供の「脳」は肌にある』光文社、2004

 日本の伝統的な子育ての大切さ。スキンシップの重要性。
 ハートフルな学級経営のヒントになる。


●遠藤功『新幹線お掃除の天使たち 「世界一の現場力」はどう生まれたか?』あさ出版、2012

 人を育てる点では、子どもも大人も同じ。自分たちで工夫する環境づくり。
 「バイトが9割」のディズニー関連書籍と共通する内容でなるほど!

何でも担任に押し付ける教師

学級担任というのは尊い仕事だ。
まさに教員の醍醐味といっても過言ではない。
この魅力に、昇進を拒む人も少なからずいる。

だが、学級担任は、その子の全てを担っているのではない。
その辺を勘違いして、何か我がクラスの子にあると、
何かにつけて私に報告し、
それも報告だけならまだしも、
指導までお願いされ、
それだけにとどまらず、
私の指導に責任があるともとれることを言うのである。

私が指導する分には一向に構わないが、
そこに問題点があるから私は嫌だ。


私の見ていないところで悪さをしているとする。

人間ならば、怒られたくない人の目の前で、
わざわざ悪さをする人などいないだろう(笑)
子どもも然り。

それを別のそのときそこにいた先生に見つかり、叱られたとする。

すると、私に報告が入る。
(私にとってはこの報告すらどうでもいい)

そして、「担任から指導した方がいい」と訳の分からないことを言う。
指導はできなくもないが、誰かが望んでいるような厳しい指導はできない。
だって、私が腹を立てているのではないのだから。

腹を立ててくれと言われても不可能だ。

腹を立てている人が叱ればいいのである。
状況をしっている人が叱ればいいのである。

私に叱ってほしいならば、全て状況を洗い出し、
目の前に文字に起こして出してほしい。
叱ってほしいと「お願い」するのだから、
それくらいの準備をするのは礼儀だろう。

そうでなければ、私が叱らなくてはならないために、
またその子から状況を聞かなければならない。
面倒だし、非効率的だ。


よく「複数対応で」なんていう話を聞く。
子ども相手に、何が複数対応だと怒りさえ覚える。
相手はたかが子どもだ。
論理的に大人が負けるわけがない。
しかも、淡々と理詰めしていけば、後でトラブルになることもない。
理詰めというのは、その子の「人格」の否定ではなく、
「言動」の否定なのだ。
それさえできれば、複数で対応する必要などない。

叱りたい当事者と、その子どもだけがその場にいればいいのである。

そんなその場にいない担任に、叱る責任などない。

担任に任せないと、

「担任の先生の目の前“では”悪さをしない子になるよ。」

と言う人がいるが、それは違う。

むしろ、この(腹を立てている)先生は、
担任の先生がいなければ、自分のことを叱れないのだと思うだろう。
一人では叱れない、臆病な先生だと思うだろう。

叱りたい人が叱ってこそ、意味がある。
なぜ叱りたい気持ちを持ったのかが明確だからだ。

その気持ちまで担任に推し量れと言われても無理だ。
私は超能力者でもなんでもない。
何に対して、どの程度叱りたいのかなど、分かるわけもない。

私は一度たりとも、担任の応援を呼んだことはない。
自分一人で叱れるし、反省させ、行動を改めさせることができるからだ。


叱られる子どもにだってプライドがある。
せめて担任には知られたくない、そんなプライドがある。

たかだが十数年しか生きていない子どもだ。
それくらいのプライドを大切にしてやれないで、何が教師だ。
そんな教師は、どこか躾の良い学校に転勤すればいい。
それはどうも気が乗らない、というのであれば、教師を辞めればいい。
向いていないのだ。
子どもを指導できないのだ。しかも生活指導が。
辞めた方がお互いのためだ。

叱られる子どものプライドは実に繊細だ。
我々が思っている以上に、壊れやすい。

「叱れることをしていて、今さらプライドなど関係ない!」

とやたらと興奮している教師がいる。

そんな教師は辞めることをおすすめする。


叱れる子どもにも気持ちはある。
考えたことがありますか?

2013年2月11日月曜日

時間の意識

インターネットの記事で、外国人が
「日本人は時間に甘い」と述べているものがある。

始まりの時刻は守るが、終わりの時刻は守らないという。

確かにそうだ。
会議の時刻はその典型的な例だ。

教師の場合、会議もあるが、授業時間がいい例だろう。

私は、始まりに遅れることはあっても、終わりをずらしたことはない。
だから、子どもたちもチャイムが鳴ると、授業に切り替える。

こんなことを言うと、

「社会に出たら、そう終わりの時刻は決まっていないんだから……」

と言う大人がいる。

確かに社会はそうかもしれないが、そうであってはならない。
望ましい現状を体得させるのが教育の場ではないのだろうか。

2013年2月10日日曜日

体罰は法律で禁止されている。

今日の朝日新聞朝刊。
伊吹文明・元文部科学大臣の言葉が記されていた。

体罰を否定するものではないようだ。

しかし、これだけでは説明が足りないように思う。

学校教育に限って付け足す。

学校教育法第11条には、

  校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

とある。

つまり、体罰が禁止されているのだ。

家庭内での教育云々は置いておくにしても、
教員である以上、体罰は許されないことなのである。

もちろん、私も子どもに手を挙げたことは一度たりともない。

それでも、今まで課題ありだった子を、わずかかもしれないが変えてきた。
そして、私のクラスにいることで、職員の間であまり話題に上らなくなった。

教育の一端とはこういうことをいうのだ。

2013年2月5日火曜日

意味が対である二字熟語集め

6年生国語(光村)に、熟語の成り立ちを学習する小単元がある。

いくつか成り立ちのパターンを学習するが、
意味が対のものは、熟語集めをすると熱中する。

最初は、簡単に「左右」という例を出す。
そういうことかと納得する。

そうしたら個人でも班でもよいから、
時間を決めて熟語集めをする。

左右 上下 前後 白黒 親子 昼夜 男女 老若
長短 大小 高低 官民 公私 生死 硬軟 広狭
……

この小単元は、これに時間を割くことで、
めりはりのある小単元になる。

全て熟語集めをしていたのでは、時間数を明らかにオーバーする。

2013年2月4日月曜日

給食時間でのドラマ

今日から立春。週の切り替えで立春とは、どこか心地よい。

よって、今日から給食当番のメンバーも変わる。

クラスで配膳しようとしたそのとき、
ある女子が箸とご飯とおかずを一緒に盛る大皿をひっくり返してしまった。
それも全員分である。

女子が「ごめんなさい!」と言うと、
「ドンマイ!」と「大丈夫?」と、そして、
助けに行こうとすぐに駆け寄る10人ほどの子どもたち。

なんと素敵なんだろう。
誰一人として責め立てるものはいない。
いただきますの前に、大いに褒めた。

もちろん、最初からこういう集団だったわけではない。
春は、どちらかといえば他人事で、口にこそ出さないが、
どこか白い目で見る雰囲気だった。

「知らん顔が一番腹が立つ」
「いざ自分がそういうときになったら、誰も助けてくれない」

どれだけ叱っただろうか。

それがもう卒業というこの時期に、
こういう形で子どもたちの姿が見られたのは嬉しい限りだ。

継続して指導したことというのは、
クラスが終わりになる頃に実るものが多い。

だから、教師はおもしろい。

「ドンマイ!」

私のクラスの合い言葉のようなものである。

長縄など、クラスで真剣に何か挑戦しているとき、
誰かが失敗したら全員で「ドンマイ!」と大声で言う。

これが表面的に見えるかもしれないが、
幾人かは「また挑戦しよう!」と前向きな気持ちになっている。

こういう言葉がじわじわと効く。

2013年1月26日土曜日

私のいいところ

学年の都合で、クラスの子たちが、
隣のクラスに行き、国語のテストを受けた。

国語のテストなど、45分もかからない。
残った時間、「私のいいところ」を書かせたのだという。

1位は「字が上手」
書字にはそれなりの自信があるし、
黒板に字を書かない日はないから、自分でも納得だ。

2位が何だったか。

「時間にけじめがある」だったのだという。

授業時間は、始まりはもちろん、終わりも守る。
だから、子どもたちも、授業、掃除、休み時間は、
始まりと終わりを守る。

たまに、「教師の方に合わせられるようにならないと、
この先、何か時間をオーバーするときに、対応できる力が……」
などと訳の分からないことを言う人がいる。

おかしいのは、「終了時刻を守らない」ことそのものなのである。
日本人の特徴だ。
始まりはかっちり守るが、終わりは結構曖昧である。
職員会議がその最たる例であろう。

私は、一教員としてではなく、一人の人間として、
終わりの時間を守ることがとても気持ちがよい。
それを子どもに徹底させることも何ら違和感はない。

これほど時間を守れば、
子どもが何らかの事情で授業開始に間に合わないときも、
すっと「すみません」と言いに来る。

2013年もよろしくお願いします。