学級担任というのは尊い仕事だ。
まさに教員の醍醐味といっても過言ではない。
この魅力に、昇進を拒む人も少なからずいる。
だが、学級担任は、その子の全てを担っているのではない。
その辺を勘違いして、何か我がクラスの子にあると、
何かにつけて私に報告し、
それも報告だけならまだしも、
指導までお願いされ、
それだけにとどまらず、
私の指導に責任があるともとれることを言うのである。
私が指導する分には一向に構わないが、
そこに問題点があるから私は嫌だ。
私の見ていないところで悪さをしているとする。
人間ならば、怒られたくない人の目の前で、
わざわざ悪さをする人などいないだろう(笑)
子どもも然り。
それを別のそのときそこにいた先生に見つかり、叱られたとする。
すると、私に報告が入る。
(私にとってはこの報告すらどうでもいい)
そして、「担任から指導した方がいい」と訳の分からないことを言う。
指導はできなくもないが、誰かが望んでいるような厳しい指導はできない。
だって、私が腹を立てているのではないのだから。
腹を立ててくれと言われても不可能だ。
腹を立てている人が叱ればいいのである。
状況をしっている人が叱ればいいのである。
私に叱ってほしいならば、全て状況を洗い出し、
目の前に文字に起こして出してほしい。
叱ってほしいと「お願い」するのだから、
それくらいの準備をするのは礼儀だろう。
そうでなければ、私が叱らなくてはならないために、
またその子から状況を聞かなければならない。
面倒だし、非効率的だ。
よく「複数対応で」なんていう話を聞く。
子ども相手に、何が複数対応だと怒りさえ覚える。
相手はたかが子どもだ。
論理的に大人が負けるわけがない。
しかも、淡々と理詰めしていけば、後でトラブルになることもない。
理詰めというのは、その子の「人格」の否定ではなく、
「言動」の否定なのだ。
それさえできれば、複数で対応する必要などない。
叱りたい当事者と、その子どもだけがその場にいればいいのである。
そんなその場にいない担任に、叱る責任などない。
担任に任せないと、
「担任の先生の目の前“では”悪さをしない子になるよ。」
と言う人がいるが、それは違う。
むしろ、この(腹を立てている)先生は、
担任の先生がいなければ、自分のことを叱れないのだと思うだろう。
一人では叱れない、臆病な先生だと思うだろう。
叱りたい人が叱ってこそ、意味がある。
なぜ叱りたい気持ちを持ったのかが明確だからだ。
その気持ちまで担任に推し量れと言われても無理だ。
私は超能力者でもなんでもない。
何に対して、どの程度叱りたいのかなど、分かるわけもない。
私は一度たりとも、担任の応援を呼んだことはない。
自分一人で叱れるし、反省させ、行動を改めさせることができるからだ。
叱られる子どもにだってプライドがある。
せめて担任には知られたくない、そんなプライドがある。
たかだが十数年しか生きていない子どもだ。
それくらいのプライドを大切にしてやれないで、何が教師だ。
そんな教師は、どこか躾の良い学校に転勤すればいい。
それはどうも気が乗らない、というのであれば、教師を辞めればいい。
向いていないのだ。
子どもを指導できないのだ。しかも生活指導が。
辞めた方がお互いのためだ。
叱られる子どものプライドは実に繊細だ。
我々が思っている以上に、壊れやすい。
「叱れることをしていて、今さらプライドなど関係ない!」
とやたらと興奮している教師がいる。
そんな教師は辞めることをおすすめする。
叱れる子どもにも気持ちはある。
考えたことがありますか?
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