2013年2月12日火曜日

何でも担任に押し付ける教師

学級担任というのは尊い仕事だ。
まさに教員の醍醐味といっても過言ではない。
この魅力に、昇進を拒む人も少なからずいる。

だが、学級担任は、その子の全てを担っているのではない。
その辺を勘違いして、何か我がクラスの子にあると、
何かにつけて私に報告し、
それも報告だけならまだしも、
指導までお願いされ、
それだけにとどまらず、
私の指導に責任があるともとれることを言うのである。

私が指導する分には一向に構わないが、
そこに問題点があるから私は嫌だ。


私の見ていないところで悪さをしているとする。

人間ならば、怒られたくない人の目の前で、
わざわざ悪さをする人などいないだろう(笑)
子どもも然り。

それを別のそのときそこにいた先生に見つかり、叱られたとする。

すると、私に報告が入る。
(私にとってはこの報告すらどうでもいい)

そして、「担任から指導した方がいい」と訳の分からないことを言う。
指導はできなくもないが、誰かが望んでいるような厳しい指導はできない。
だって、私が腹を立てているのではないのだから。

腹を立ててくれと言われても不可能だ。

腹を立てている人が叱ればいいのである。
状況をしっている人が叱ればいいのである。

私に叱ってほしいならば、全て状況を洗い出し、
目の前に文字に起こして出してほしい。
叱ってほしいと「お願い」するのだから、
それくらいの準備をするのは礼儀だろう。

そうでなければ、私が叱らなくてはならないために、
またその子から状況を聞かなければならない。
面倒だし、非効率的だ。


よく「複数対応で」なんていう話を聞く。
子ども相手に、何が複数対応だと怒りさえ覚える。
相手はたかが子どもだ。
論理的に大人が負けるわけがない。
しかも、淡々と理詰めしていけば、後でトラブルになることもない。
理詰めというのは、その子の「人格」の否定ではなく、
「言動」の否定なのだ。
それさえできれば、複数で対応する必要などない。

叱りたい当事者と、その子どもだけがその場にいればいいのである。

そんなその場にいない担任に、叱る責任などない。

担任に任せないと、

「担任の先生の目の前“では”悪さをしない子になるよ。」

と言う人がいるが、それは違う。

むしろ、この(腹を立てている)先生は、
担任の先生がいなければ、自分のことを叱れないのだと思うだろう。
一人では叱れない、臆病な先生だと思うだろう。

叱りたい人が叱ってこそ、意味がある。
なぜ叱りたい気持ちを持ったのかが明確だからだ。

その気持ちまで担任に推し量れと言われても無理だ。
私は超能力者でもなんでもない。
何に対して、どの程度叱りたいのかなど、分かるわけもない。

私は一度たりとも、担任の応援を呼んだことはない。
自分一人で叱れるし、反省させ、行動を改めさせることができるからだ。


叱られる子どもにだってプライドがある。
せめて担任には知られたくない、そんなプライドがある。

たかだが十数年しか生きていない子どもだ。
それくらいのプライドを大切にしてやれないで、何が教師だ。
そんな教師は、どこか躾の良い学校に転勤すればいい。
それはどうも気が乗らない、というのであれば、教師を辞めればいい。
向いていないのだ。
子どもを指導できないのだ。しかも生活指導が。
辞めた方がお互いのためだ。

叱られる子どものプライドは実に繊細だ。
我々が思っている以上に、壊れやすい。

「叱れることをしていて、今さらプライドなど関係ない!」

とやたらと興奮している教師がいる。

そんな教師は辞めることをおすすめする。


叱れる子どもにも気持ちはある。
考えたことがありますか?

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