2011年9月28日水曜日

3.11 子どもへの対応

2011.3.11、東日本大震災が発生した。
私は、5時間目の授業中だった。

大きく、そして長い時間揺れた。
心配されていた「東海大地震」が来ると思った。
ともかく長かった。

第一に考えたことが、「子どもを安心させること」である。

とにかく子どもをパニック状態にしてはならない。
パニックを起こせば、避難する際に混乱をきたすし、
その混乱によって、二次災害に遭う危険性を察知したからだ。

そこで私はこう言った。

  大丈夫、大丈夫。
  先生は、これよりも大きい地震を、高校時代に2回経験しています。
  先生が慌てていないから大丈夫です。

実際に、高校時代に震度5弱を2回経験している。
その経験も良くはたらき、子どもを安心させることができた。

後日、保護者と会った際に、

  本当はとても怖かったみたいです。
  でも、先生が「先生はこれよりも大きい地震を2回経験している」と
  言ってくれたおかげで、だいぶ安心したようです。

と言われた。

私が「大丈夫」と言っている最中、騒ぐ子どもなどいない。
だが、本当は怖がっている子どもがもっといたはずだ。

そんな中で、「先生が落ち着いているから大丈夫です」と言うことはプラスだ。
ましてや、私は地震を割と経験しているから、自信をもって「大丈夫」と言えた。

地震を経験していない人でも、

  先生たちは毎年訓練しているから大丈夫です。
  どの先生も慌てていないから大丈夫ですよ。

と言えるはずである。

教室で子どもが頼れるのは先生だけである。

その使命感を深く実感した3.11でもあった。

2011年9月25日日曜日

教師の言葉

今日は、機会あってある政党の党首の演説を生で聞くことができた。

そこで、とても勉強になったのが、話す言葉である。

フレーズの始めに、「えー」とか「ああ」とか、
間合いをとるための余計な言葉がないのである。

聞きながら、頭の中で文字に起こしてみた。

書いた文章そのもの、余計な言葉が一切入っていない。

なので、内容がすっと頭に入ってくる。
ここまで、頭に気持ち良く内容が入るのかと驚いた。

大舞台で話し慣れているのは当然だろうが、
やはり地元で活動している議会議員や国会議員とは、演説のうまさが比ではない。

そもそもいらない言葉を話していないだろうかと、自分を振り返る機会になった。
火曜日(明日は代休)から気を付けてみようと思う。

2011年9月21日水曜日

指示の出し方

教師は場面場面で子どもを動かす。
そのときに発せられる言葉が「指示」だ。

この指示の出し方でも、子ども相手では技術がいる。

ある運動会の練習での出来事である。
低学年と高学年がペアで行う競技の練習をしていた。

ルールを説明する。
そのときに、子どもがざわついているのに、ある教師は話を始めた。
顔が話をする教師の方を向いていないのに、話を始めた。

結果としては、1、2割の子どもにしか指示は通らなかった。

子どもに話を聞かせるときは、絶対に教師に集中させなければならない。

集中させるとは、
1.体を教師の方へ向かせる(「おへそを○○先生へ向けなさい。」)
2.顔を教師の方へ向かせる(下を向いている子どもは1人も見逃さない)
3.口は絶対に開かせない(質問は後で受け付ける。口を挟むのもだめだ。)

ということであり、これが成立して、初めて指示が通る。

私は日頃子どもたちにこう言っている。

「勉強できる子もいれば、苦手な子もいます。運動も図工もそうです。
勉強に関係することで、できないことは怒りません。
しかし、話を聞くとか、1回の指示で起立するとか、
全員ができることをしなかったときは怒ります。」


また、「趣意説明」も忘れてはならない。

どういう理由で、今そうするのかを子どもたちに説明するのだ。
暗黙の了解で理解する子どもはいるが、そうでない子どももいる。

なぜその行動をするのかを全員に理解させなければならない。

そうすると、自分で工夫して何か行動する子どもも出てくる。
それをすかさず褒める。
そうすると、規範意識が育つ。


指示を聞くことは、教師からすれば当たり前にできてほしいことである。
できるまで、教師は声をかけるなど色々と一生懸命になる。

しかし、できたところで褒めない教師が多い。

相手が高学年でも、当たり前のことが当たり前にできたら褒める。

「さすが高学年!
当たり前のことが当たり前にできるのは、高学年が一番ですね!」


褒める要素を忘れないように、指導していきたいものだ。

2011年9月20日火曜日

給食の残量が減ることを目指して

今日は、職場の先輩に教わった方法を少し加えて、給食指導をした。


1.食べきれない分を減らす。
※箸をつけたら、減らせないこと。
※減らしたら、残りは責任をもって食べること。

2.増やしたい分を増やす。
※増やしたら、責任をもって食べること。
※そうするために、少し増やしたい人は「少しでいいです。」と申し出ること。

3.個数もののおかずをじゃんけん。
※例えば、牛乳1つ、デザート1つなら、参加できるのはどちらか一方。
※牛乳で負けても、デザートには参加できない。

4.給食終了5~10分前に、食缶にある分を増やして回る。
※食べ終わっている子どもに、「もう一口ね」と言って回る。
※もちろん、無理強いはしない。


「4.」を初めてやってみた。

そうしたら、ほとんどの献立が、底が見えるくらいしか残らなかった。
(けれど、いつも注意してくる栄養士は褒めてくれなかった^^;)

「もう一口」を避けるために、わざと食べるスピードを遅くする子が出ないといいのだが(笑)

とりあえずは、この方法で続けようと思う。

もちろん、それでも残してしまう子どもはいるが、「完璧は目指さない」ことが大事である。
なにせ、子どもによっては生理的苦痛を伴うことがあるのだから。
それは、無理強いしてはいけない。それは教育ではない。
本来は、家庭でやるべき「躾」である。

しかし、残してしまった子どもでも、
「○○は残しちゃったけど、他は全部食べたよ!」と誇らしげであった。
それが、普段あまり食べない女子からの言葉だったのが、何より嬉しかった。

また、残りが少ない食缶を見せると、クラスから拍手が沸き起こった。
子どもにとっては、大きな喜びでもあったのかもしれない。

算数の授業

今年度から、新しい「学習指導要領」が完全実施になった。
それに伴い、教科の内容増が言われている。

算数に至っては、なんと3割も増えたのだ。

基本的に、下の学年にどんどん内容が下りている。
教科書を見渡す限り、一番きついのは4年生。
ついで5年生といったところか。

どのみち、特に算数においては、
年度内に教科書の内容を終えることが、より重要になってくる。

昨年度、4年生を担任していて、算数の進度で本当に苦労した(^^;)
だから、今年度、算数だけは何があっても進めようと努めてきた。
その日、担任が授業できる時間が1時間しかなかったら、迷わず「算数」だ。

だから、とりあえず指導書の配当時間で、予定通りに進んでいる。

これでも遅いと感じていたが、学年の他のクラスはもっと遅れていた。
ページにして、私より5、6ページ遅れていると思われる。

算数だけは、本当に「毎日」である。

成績をつけること

本校は2学期制なので、もうすぐで期末だ。
今日は、成績一覧表のしめきりであった。

成績をつけることは、教師にとって大事な仕事である。
嬉しくもなるし、悲しくもなる。

日々の評価と照らし合わせて、
申し送られた情報以上によく頑張っていると嬉しくなる。
前に(3段階で)「C」だった子どもが「B」になると嬉しい。

だが、そうでない場合もある。
何かしら「C」がついてしまう子どももいる。

私にとっては、30数人の内の1人の成績に過ぎないが、
その子どもにとっては、自分自身の成績なのである。

「C」をつけざるを得ないとき、自分の指導不足を痛いほど感じる。
そう、うだうだしていられないのだが、
ここが更なる指導の出発点となる。

さあ、明日からまた頑張ろう!

2011年9月18日日曜日

教師の話を聞かせるために

教師なら、子どもたちの前に立って、
話をしたり、指示を出したりすることが、当然、毎日のようにある。

そのときに、皆さんはどうされているだろうか?

私は、絶対に全員(1人残らず)が黙るまで話さない。
クラス(30人)でもそうだし、
学年集会(100人)でもそうだ。
朝会(600人)で司会をするときもそうだ。

そうしていても、聞いていない子どもがいるのだから、
ましてや、誰かが他の子どもと話している状況で、私は絶対に話さない。

クラスでは、黄金の3日間で徹底的に指導するから、
もう次の週辺りからは当たり前のルールになっている。

だが、学年集会や朝会となれば違う。
そういうルールが徹底されていないクラスが必ずあるからである。

そこで、決して妥協はしない。
少なくとも私が話すときは絶対に静かにするように指導する。
まあ、学年ぐらいは見渡せる範囲だから、そう大変でもない。

少し力を使うのが朝会である。
本校は、月曜日に朝会が設定されている。

全員に話を聞かせたい思いがある一方で、
月曜の朝っぱらから怒鳴りたくない思いもある。
月曜の朝は、爽やかに始めたい。

私は、朝会の司会で、一度も「静かにしなさい」と言ったことはない。
初任のときからそうだ。

では、どうするのか。
これも褒めて指導していくのである。

どう褒めていくのか。

絶対に6年生から褒めていくのである。

6年生は最高学年である。
6年生には最高学年としてのプライドがある。
だから、全校が集まる場では、6年生を絶対に褒めなければならない。

「6年生、さすがです!静かにできるどころか、頭も動きませんね。」
「さすが、6年生!一番に静かになりますね。」
「さすが、最高学年として立派ですね。」

他の学年よりも先に6年生を褒める。
たとえ、学年毎に見て、1年生の方が静かになっていたとしても、
6年生の静かにしている子どもを見つけて褒める。

「6年生の前の方、さすがですね!とても態度が立派です。」

これで、他の学年に伝わっていく。

初任の年に、初めて朝会の司会を担当したときには、
校長から「爽やかな司会でしたね。」と褒めていただいた。

【Aさせたいなら、Bと言え】

Bには褒める材料が当てはまるパターンが多数である。

朝会での指導、ぜひ試してほしい。

2011年9月17日土曜日

叱ること

教師なら必ずしも叱らなければならない場面に出くわす。
そのときは、相当気分が重い。
叱られている子どもも気分が重いだろうが、
それと同じくらい、またはそれ以上に、教師の気分も重い。

でも、それも「仕事」だから仕方がないことだ。

子どもたちが社会に出たとき、どれだけ良識ある行動ができるか。
教師の指導こそ、そこにかかっていると思う。


叱り方が上手な教師と、そうでない教師がいる。

私は、くどくどと説教はしない。
ときには、授業時間を2時間分も潰して、説教する教師がいるから驚きだ。

私の叱り方はとにかく理詰めである。
関係ある人数が1人でも複数でも、方針は一緒だ。

軽いものについては、

T「いいことをしましたか?」
C「(首を横に振る)」
T「悪いことをしたと分かっているんですね?」
C「(首を縦に振る)」
T「じゃあ、次から気を付けなさい。」

これで終わる。
そうそう、繰り返すことはない。

私が絶対に言わないのは、

T「やられた人の気持ちを考えたことがありますか?」

という類の言葉である。

なぜか。
対象とした人の気持ちが分からないから、
そういうことをしてしまったからである。

しかも、教師自身、やられた子どもの気持ちを十分に把握している前提。
そんなの教師自身にも分かりっこないのである。

だから、善悪の判断を自分でさせる。
悪いことをしたと認めさせれば、その子どもとの約束にもなる。

叱る時間はなるべく短い方がいい。
長いと、子どもは「早く終わらないかなあ」と思っている。
私もそうだった。
皆さんもそうだったのではないだろうか。

ちなみに言うと、
「『怒る』は感情的で、『叱る』は指導だ。」とエラソウニに言う人に、私は嫌気がさす。
そんな定義はいいから、よりよい指導法を見つけろ!と言いたくなる。

2011年9月15日木曜日

時間

教師の世界では、だいぶアバウトだ。
勤務開始時刻にはうるさいが、勤務終了時間にはうるさくない。

なぜか。

それは、授業時間を守らない教師が多いからである。

私は、とりあえず、1人で行う授業の時は、すぱっと終わる。
チャイムが鳴った瞬間、どんなに賢い子どもでも、
そこで授業の思考は終わる。
もう休み時間モードなのだ。
私もそうであった。

次の時間、冒頭数分を遣って残りをやる。
これで十分だ。

一見、まじめでおとなしそうな女子児童が家庭でこう言っていたそうだ。
「○○先生(私のこと)は、授業時間を守るからいい。
授業時間を守るから、みんなも時間を守って行動するのは納得がいく。」

子どもたちに時間を守らせたいのなら、
まずは、教師が授業時間を守ることである。

なので、私は、教師の後方に時計を1台追加した。
自分で授業中に見るためだ。

授業時間を守るだけで、教師への信頼感は高まる。

2011年9月14日水曜日

嬉しい一言

今日の算数の授業。

算数に苦手意識のある子どもがこう言った。
「最近、算数、なんか楽しい」

教師をしていて、至福を感じる言葉だ。

偶然そのときの気分によるものかもしれないし、
たまたまその単元が気に入ったのかもしれない。

しかし、たとえたった1回でも聞ければ嬉しいし、励みになる。

問題解決学習の授業をしていた頃には、一切聞けなかった言葉だ。

2011年9月13日火曜日

横浜版学習指導要領

「横浜版学習指導要領」(浜版)というものがある。

市教育委員会の関係者はこう言う。
「これは『指導資料』ですので、参考になさってください。」

だが、実際は違う。
ある指導主事がこう言っていた。
「横浜市の学力・学習状況調査の問題は、浜版をもとに作っています。」

それでは「指導資料」の性格を超えているではないか。
この横浜版学習指導要領の内容を教育していなければ、
学力・学習状況調査で得点が期待できない問題があるということだ。

我々教師は、文部科学省の「学習指導要領」に基づいて教育をすることが第一だ。
教科書も、それに基づいて作っている。
その教科書の内容を押さえただけでは、得点が期待できない問題がある。

どの講習会・研究会に行っても、市教育委員会の関係者がいれば、
「コレ(=浜版)を、ぜひ熟読してください。」
と絶対に言う。

教育が「商品」になってはダメだ。

ある指導主事が研究会でこう言っていた。
「我々が行っている教育も行政サービスですから……」

え?
教育公務員と市役所の窓口は一緒なのだそうだ。
(決して行政職公務員を罵っているわけではありません。)

教育を何だと思っているのだろうか。
行政サービス云々については、
これに理論的に反論できるほどのモノをもっていないのが悔しい。

市教育委員会が何かしらの形でからむと、いつも嫌気が差す。
でも、かわいいかわいい担任している子どもたちに、いつも救われている。

2011年9月11日日曜日

絶対評価と相対評価

本校は、2学期制である。
だから、もう今月下旬には、評価を出さなければいけない。

学校は今、「絶対評価」である。
ある到達目標に達成していれば、人数関係なく評価する。

「相対評価」は、クラスの何割がA、何割がB……といったような評価だ。

たとえ、全員が本来「A」だとしても、他の要素を加味して、
「B」や時には「C」評価をしなければならない。

だが、繰り返しになるが、今は「絶対評価」である。


ところが、本校は、完全に「絶対評価」ではない。

先週、職員室である先生が評価の話をしていた。
「何割ぐらいにしましょうね?」

その話自体、相対評価では?と思った。

あとは、管理職もこう言う。
全校の成績が揃ったところで、学年内で見てください、と。
人数にばらつきがあると、警告されるのだ。

指導する教師が違うのだから、評価も変わる。
A評価の人数も違って当然だ。

管理職の言い分はこうだ。

   学力状況調査(横浜市独自の)の結果が、クラス間でそう違いなければ、
   A、B、Cの人数比も、そう差が出ないはずだ。

何だか附に落ちない。
これを理論付けられないのは、私の力量不足だ。
それでも、何か違うのでは?と今思っている。


これについては、以下のことについても言及する必要がある。

(1)学力状況調査の結果そのものが、どれだけ有効な情報か。
(2)横浜市において、横浜版学習指導要領(市教育委員会で作成)をもとにして
   つくられた学力状況調査のテストが、評価を出す際の資料として妥当か。

「横浜版学習指導要領」については、改めて書きたい。

褒めること その2

「褒める」と、子どもは向上心をもつ。
子どもは、褒められると、自分で不十分なところを意識する。
頑張る。
そして、それを教師がさらに褒める。

……というような循環になる。

逆に、叱ってばかりだと、嫌な気分になる。
今までできていたことにも、自信がもてなくなる。
自信がないから、快活でない。
その様子を、やる気がないと教師に叱られる。

……というような循環になる。

高校時代、あれができていない、これができていないという先輩がいた。
入部したてで、楽器のブランクが取り戻せていないのにである。
もう、自分自身が、訳分からなくなっていた。

でも、ある先輩は、いいところを見つけて褒めてくれた。
そうすると、その先輩との練習は楽しくなった。
今度一緒に練習するときは、もっと上手になっていよう、と心から思えた。

自分自身が経験しているんだもの、教師は「褒める」のも仕事だ。
頑張ったこと、できたことが、教師によって「評価」される。

そうすると、子どもたちの中でも、規範意識が育っていく。

教室は、基本的にこういう営みでなければいけないと思う。

給食をどこまで食べさせるか

私にとっては、非常に悩ましいところなのです。

給食をあまり食べないといわれる、今年の学年。
大学時代の実習校と比べれば、それは確かにそうなのです。

ですが、だからといってたくさん食べさせようと、心から思えないのです。
もちろん、たくさん食べてくれたら嬉しいし、
心身共に成長する源になりますから、
好き嫌いを肯定するわけではありません。

給食は、1日3食の内のわずか「1食」。
2/3は家庭で食事をとるわけです。

なにより、食事指導が学校教育でするべきことなのか、と。
食事は「躾」の一環であり、本来は家庭が担うべきではないのか、と。

「今の時代は、学校がやらなければいけないんだ!」との声もありそうです。
しかし、そんなこと言い出したら、学校はいつかパンクします。

学校の給食の時間は、忙しい日課の中で、息抜きできる貴重な時間。
あまり、やんややんやと言いたくないのですがね(^^;)

思わず食べたくなるような、食べるのが楽しくなるような、
そんな指導法を模索することが、今は一番適当なのだと思います。

褒めること その1

大人でも、褒められて嫌な気分になる人はいない。
それが子どもなら、ましてやだ。

先日の運動会の応援練習中。
一部の教師の怒号が飛び交う。
一部の教師は、それを「熱心だ」と勘違いしている。

なぜ勘違いか。
子どもの表情を見れば明らかである。

そこで私はこうした。


T「『オー!』を一番大きな声で言うのですよ。そうすると迫力が出ます。」

一部C「オー!!!」

T「そう、○○さん、よくできていますね。いいですね。」


これで、周囲の子どもへ指示をしていることにもなる。
そうすると、女子も段々と口が開いてくる。
ほんの少しであっても、大げさに褒める。

褒めた方が、子どもも教師も気分がよい。


それに、「自尊心の向上」の教育効果がある。

もちろん、クラスでも褒める。
そうすると、クラスへの帰属意識がより一層高まる。

褒めると、子どもたちは口々に
「5-1は天才!(笑)」とお茶目に言う。
かといって、他のクラスを批判する声が出るわけではない。

もちろん、私も人間だから、カーッとなるときはある(笑)

だが、そこをグッとこらえる。
そして、できている子どもを褒める。

これだけで、クラスの雰囲気は変わる。

2年生のクラスに補欠(自習)に入ったときも、褒めた。
そうすると、45分間、誰一人として席を立つことなく、
必要のない会話がされることもなかった。

たった一度の補欠でも、立派に過ごしていたのだから、
担任するクラスでとなれば、褒めることの重要さが際立つだろう。


最後に。

管理職も、教員を育てる意識で、もっと褒めることを大事にしてほしいものだ。

2011年9月5日月曜日

私の教室での特別支援

発達障害(傾向)の子どもは、どのクラスにいても当たり前の時代。

やはり、それなりに対策をするのが教師の仕事だと思います。
どの子どもに聞いても、学校は「勉強しに来る所」なのですから。

私の教室の前面には、何も掲示していません。
放送のスピーカーと時計だけです。

ちなみに、黒板にも何も情報はありません。
日付は書いていません。
日直の名前も掲示していません。
その日の予定や時間割も書いていません。
(写真を用意するのを忘れました……すみません)

子どもたちを黒板に集中させるためです。

クラスの中には、黒板に他の情報があると、
そちらに気がいってしまう子どもがいます。

「選択注意ができない」といいます。

そのような子どもへの特別支援の一環です。

日付……常に書いておく理由が見つかりません。
必要なときに、子どもたちに聞けば済みます。

日直……朝に一度日直を口頭で確認します。
あとは「にっ・ちょく・さん♪」の一言で済みます。

予定や時間割……別の小さめの黒板に書きます。
授業中は隅へ置き、子どもたちの視界から消します。

学級目標は、教室の後ろに掲示しています。


ほとんどの学校では、職員室の前方に
「学校教育目標」が掲示されているのではないでしょうか?

それを覚えていたり意識したりしている職員が何人いるでしょうか?

だから、そんなに前面への掲示って印象がないものです。

どんなに賢い子どもでも、ふとした瞬間に、余計な掲示物に目がいくものです。


選択注意ができない子ども(同一)を2年間もっています。

最初は、黒板の隅に時間割を書いていました。
そうすると、授業中にいきなり「○時間目に何をするんですか?」と聞いてきます。

ある日、前面への情報を一切取り除きました。

すると、その日からその子どもは一切何も聞かなくなりました。


私の教室を見て、「殺伐としている」という方がいます。

それはあくまで、「見た目だけ」の話です。

実際に、授業中の子どもの様子を見て、評価してほしいものです。

私のクラスの授業は「整然とした雰囲気」という特徴があるようです(笑)

2011年9月4日日曜日

海岸線の入り組んだ形に気付かせる実践(三浦半島・4年社会)

4年生の社会科。
年明けからは、「わたしたちの○○県」というような単元に入る。

神奈川県では、多くの学校が三浦半島を取り上げる。
漁業や農業が盛んであり、温暖な気候も関係しているからだ。
三浦半島は、海岸線が入り組んだ形をしている。
だから、「湾」が多く、水産資源に恵まれている。

海岸線が入り組んだ形をしていることに気付かせる授業があった。
入り組んでいない海岸線の地図を用いて、
見た目で判断させる授業も考えられた。

しかし、それでは不十分だと感じた。

そこで、自分でする作業を通して理解させようと思い、以下のように実践した。


1.地図を2種類用意する。(両面印刷ではない方がよい)
    (1)三浦半島の地図(入り組んでいる)  (2)横浜港付近の地図(入り組んでいない)

2.横浜港付近の地図で、海岸線を赤鉛筆でなぞらせる。

3.三浦半島の地図で、海岸線を赤鉛筆でなぞらせる。


これだけで、「3.」の段階で「うわあ、大変だよ」「手が疲れる」といった声が聞こえる。

入り組んでいない地形はすっとなぞることができる。
入り組んでいる地形はそうもいかない。
複雑だから、スピードは落ちるし、手が疲れるのである。


反省点は以下の通りである。

私は、地図を両面印刷してしまった。
しかし、視覚的に比較させることを考えれば、両面印刷ではない方がよい。

横浜港付近の地図は、なぞらせるスタート地点を指示するのに時間がかかった。
目標物が多すぎるからである。
地図に予め、スタート地点を書いておけばよかったのかもしれない。


この授業、子どもたちが「大変」と言ったら、
「どうして、なぞるのが大変なの?」と聞けばよい。

「複雑だから」「たくさん凸凹があるから」という答えが返ってくる。

2011年9月2日金曜日

私が遣わない言葉

いくらかわいい子どもたちといえど、線引きは大事。
どんなに子どもたちと親しかろうと、所詮は「他人」。


その1 「~してください。」

教師の方が目上である。
子どもたちに指示を出すときに、「~してください。」だとどうも弱い。
「~します。」「~しなさい。」で指示は出す。

「~しなさい。」に抵抗がある人もいるかもしれないが、なんてことはない。
子どもたちはそれで恐怖感を覚えているわけではない。
言葉尻がどうこうよりも、明確に指示を出すことの方が、
よっぽど子どもからの信頼感は高まる。


その2 職員室での悪口

放課後の職員室。1日の中で、最も嫌気が差す時間だ。
もちろん全ての先生ではない。
しかし、一部では愚痴大会が始まる。

その人は、「子どもが悪い。」「親が悪い。」というメッセージを込めているかもしれない。

少なくとも私は、「私(教師)の指導不足です。」という意味に捉えてしまう。

子どもが教師の思う通りに動かなかったら、まずは自分自身を疑うべきだ。
指示の出し方が曖昧だったり、子どもに対して寛容でなかったりする。
だいたい愚痴を並べる先生に当てはまる。
子どもたちを的確に動かしたという事実をつくれなかったのだ。

想像してほしい。
もし、自分に子どもがいて、
自分の子どもが、所詮は他人の愚痴の対象になっているとしたら……。

もちろん、私が今担任していたり、過去に担任したりしたクラスに、
問題行動やちょっと気になる言動をする子どもがいなかったわけではない。

そういうときは、「○○が~なんですが、どうしたらいいでしょうか?」と相談する。

この辺は、改めて詳しく書きたい内容だ。



とりあえず、1週間が終わった。
シルバーの3日間。
夏休み前に曖昧だった部分を、クラスで考え直すことができた。

そして、笑顔で「さようなら」できたのが、何より安堵する瞬間だ。

2011年9月1日木曜日

よろしくお願いします!

今日から、ブログを始めることにしました。

私は、公立小学校教員をしています。

日々の実践を記録していくことで、
特に良い実践は、「独り占め」しないで、共有できたらいいなと思い、
このブログを立ち上げることにしました。

今は、5年生の担任をしています。

今日から給食が始まりました。
昨日まで午前授業でしたが、今日から午後まで授業があります。

少し時間に余裕があったので、久しぶりに「五色百人一首」をやりました。

「百人一首の机!」と私が叫んだ瞬間、
子どもたちからは「やったー!」の声。

今日から毎日続けていきます。
毎日続けるからこそ、苦手だと思っている子どもも楽しく参加できます。

抜き打ちみたいに、やる日が固定されていないと、
「あ~あ、よりによって今日百人一首かよ……」と思うかもしれませんね。

子どもたちに、美しい日本語のリズムを感じさせるという目的でも、
「五色百人一首」は手軽な実践だと思います。