2013年2月21日木曜日

「海の命」第1時

範読。そして意味調べ。

意味調べは、このようにノートに書かせています。
(もちろん、縦書きです)


・瀬 → p.○○

・こときれる → p.○○


意味を書きません。
意味を書くとなると時間がかかります。
こうすると、割合辞書が苦手な子でも、さくさくひきます。

私が小学生のときの国語の教科書にも、「海の命」がありました。
「おとう、ここにおられたのですか。」で訳が分からなくなりました。

大人になって改めて読んでみて、少し作品の意味合いが分かり始めました。

私自身も勉強です。

2013年2月20日水曜日

二重跳びリレーでの大逆転!

体育では、毎時間縄跳びの時間をとっています。5分間です。
「向山式なわとび級表」を用いています。
有段者はまだ現れていませんが、着実に力をつけています。

二重跳びが1回もできなかった子が、10回連続でできるようになりました。
後ろ二重跳び、交差二重跳び、あや二重跳びができる子も増えました。

級表に取り組んだら「二重跳びリレー」です。
男女が各1列に並びます。
男女対抗です。
これは、どういうわけか男女対抗が盛り上がります。
男女混合ではいまいちです。

もう3ヶ月を過ぎ、全て男子が勝っていました。
20勝はしたでしょうか。

ところが、今日、女子が初勝利を収めました。
劇的勝利です。

やってできないことはないのです。

2013年2月19日火曜日

机の上を空にしなさい!

これも、だいぶ使っている口癖です。

朝の会など、私の話を聞かせるときに言います。
机の上を空にすることで、話に集中させるためです。

物が乗っていると、
それをいじる子、片付け途中の子、
教室が何だか雑然としています。
話をしても、すぐに質問に来ます。

もちろん、聞いていない子に責任がないわけではないですが、
教師の指示の通し方にも問題があるでしょう。

私は、朝の会・帰りの会の開始前に言います。

「机の上を空にしなさい。」

整然とした雰囲気で始めます。

2013年2月18日月曜日

机整頓!

年明けからでしょうか、口癖になりつつあります。
もちろん、年が明けてから、クラスの環境が乱れ始めたわけではありません。

もっと子どもたちに整頓する気持ちよさを感じてほしいので、始めました。

特に、帰りのあいさつの前、全員が起立しているときには、毎日言います。
もちろん、その後下校するので、多少乱れはします。
しかし、「そういうふうにするものだ」というのを感じてほしいのです。

机が場所よりも前に出すぎると、
「出しゃばるな(笑)」と言います(笑)
『あ~あ、出しゃばっちゃった』と子どもは言います。

最近は「整頓!」と一言です。

もちろん、帰りは一番最後に教室を出ます。
乱れている机を直します。

次の日、やはり気持ちの良い、整然とした教室に入りたいですから。

2013年2月12日火曜日

全校合唱での一言

今日、英語活動・国際理解教室の先生お2人のお別れ式があった。

母国語でお話される場面もあったが、言葉は分からなくても、
なぜかその温かさは伝わってくる。
卒業を控えた6年生に向けてメッセージを寄せてくださった場面もあった。
ありがたいことである。

私がこの日は校歌の伴奏。
歌う前に雰囲気をつくる必要がある。

「伴奏は○○先生です。お願いします。」

と司会の児童に言われて、そのまま始めてしまうのは論外だ。

何のために歌うのか、どう歌うのかを簡潔に伝える必要があった。
歌う数分前に考えた言葉を全校に伝えた。

「全校でお2人の先生に会うのも今日が最後です。
その先生に校歌を聞かせます。
この1年間で、一番上手に歌いましょう。
体育館に声がたくさん響くように。
自分の声が跳ね返って聞こえるくらい、大きな声で歌いましょう。」

こんな内容だった。
結果、今まで体育館で歓迎式やら離任式やら修了式やらを行ってきた、
どの場面よりも大きな声で、体育館に朗々と声が響いた。

ピアノの蓋は全開。男の私。
今までは音量を抑えなければならない場面もあったが、
今日は一切なかった。

教師力を上げたいならば……

すぐに実践できることは数多ある。
(余談だが、ある教員は「数多」が読めなかった)

まずはインターネット。
指導案などいくらでも手に入る。
TOSSランドのように、教育に特化した専門サイトでさえある。
そこから情報を24時間仕入れることができる。
ちょっとしたネタをクラスで実践してみる。
そのときの子どもの目の輝きは忘れられないものとなる。
その積み重ねで、クラスが生き生きとしてくる。
実践を重ねるほど、その内容が整理され、精選され、
クラスの持ち味、その教師の持ち味になる。

インターネットを上回るのが本・雑誌だ。
教師にとって読書は必要不可欠である。
教師力を上げるため、知識・教養を高めるため。

もうすぐで年度替わり。
来年度分、雑誌の定期購読を4誌契約した。
(とりあえず、今の収入での精一杯)
カード決済のため、毎月のポイント分で、もう1誌を購読する。
合計5誌。なんとか教師としての最低ラインを超えた。
まずは、数だけでもこなすということも必要である。

本・雑誌には、そのときに必要としていなくても、
後々に生きる情報が盛り込まれている。
同じような内容を複数号で目にするため、
一種のサブリミナル効果かもしれないが、
それが自ずと自分の教育技術になるときでさえある。

正月には割と時間ができたので、本のジャンルを広げてみた。
その中でも、おもしろかったのが以下。


●菊池省三・関原美和子『菊池先生の「ことばシャワー」の奇跡 生きる力がつく授業』講談社、2012

 学級経営のドラマ。事実で示される教師力。討論のできるクラス。
 実践している先生がいると、自分も一歩でも近付きたいと気持ちが高ぶる。


●山口創『子供の「脳」は肌にある』光文社、2004

 日本の伝統的な子育ての大切さ。スキンシップの重要性。
 ハートフルな学級経営のヒントになる。


●遠藤功『新幹線お掃除の天使たち 「世界一の現場力」はどう生まれたか?』あさ出版、2012

 人を育てる点では、子どもも大人も同じ。自分たちで工夫する環境づくり。
 「バイトが9割」のディズニー関連書籍と共通する内容でなるほど!

何でも担任に押し付ける教師

学級担任というのは尊い仕事だ。
まさに教員の醍醐味といっても過言ではない。
この魅力に、昇進を拒む人も少なからずいる。

だが、学級担任は、その子の全てを担っているのではない。
その辺を勘違いして、何か我がクラスの子にあると、
何かにつけて私に報告し、
それも報告だけならまだしも、
指導までお願いされ、
それだけにとどまらず、
私の指導に責任があるともとれることを言うのである。

私が指導する分には一向に構わないが、
そこに問題点があるから私は嫌だ。


私の見ていないところで悪さをしているとする。

人間ならば、怒られたくない人の目の前で、
わざわざ悪さをする人などいないだろう(笑)
子どもも然り。

それを別のそのときそこにいた先生に見つかり、叱られたとする。

すると、私に報告が入る。
(私にとってはこの報告すらどうでもいい)

そして、「担任から指導した方がいい」と訳の分からないことを言う。
指導はできなくもないが、誰かが望んでいるような厳しい指導はできない。
だって、私が腹を立てているのではないのだから。

腹を立ててくれと言われても不可能だ。

腹を立てている人が叱ればいいのである。
状況をしっている人が叱ればいいのである。

私に叱ってほしいならば、全て状況を洗い出し、
目の前に文字に起こして出してほしい。
叱ってほしいと「お願い」するのだから、
それくらいの準備をするのは礼儀だろう。

そうでなければ、私が叱らなくてはならないために、
またその子から状況を聞かなければならない。
面倒だし、非効率的だ。


よく「複数対応で」なんていう話を聞く。
子ども相手に、何が複数対応だと怒りさえ覚える。
相手はたかが子どもだ。
論理的に大人が負けるわけがない。
しかも、淡々と理詰めしていけば、後でトラブルになることもない。
理詰めというのは、その子の「人格」の否定ではなく、
「言動」の否定なのだ。
それさえできれば、複数で対応する必要などない。

叱りたい当事者と、その子どもだけがその場にいればいいのである。

そんなその場にいない担任に、叱る責任などない。

担任に任せないと、

「担任の先生の目の前“では”悪さをしない子になるよ。」

と言う人がいるが、それは違う。

むしろ、この(腹を立てている)先生は、
担任の先生がいなければ、自分のことを叱れないのだと思うだろう。
一人では叱れない、臆病な先生だと思うだろう。

叱りたい人が叱ってこそ、意味がある。
なぜ叱りたい気持ちを持ったのかが明確だからだ。

その気持ちまで担任に推し量れと言われても無理だ。
私は超能力者でもなんでもない。
何に対して、どの程度叱りたいのかなど、分かるわけもない。

私は一度たりとも、担任の応援を呼んだことはない。
自分一人で叱れるし、反省させ、行動を改めさせることができるからだ。


叱られる子どもにだってプライドがある。
せめて担任には知られたくない、そんなプライドがある。

たかだが十数年しか生きていない子どもだ。
それくらいのプライドを大切にしてやれないで、何が教師だ。
そんな教師は、どこか躾の良い学校に転勤すればいい。
それはどうも気が乗らない、というのであれば、教師を辞めればいい。
向いていないのだ。
子どもを指導できないのだ。しかも生活指導が。
辞めた方がお互いのためだ。

叱られる子どものプライドは実に繊細だ。
我々が思っている以上に、壊れやすい。

「叱れることをしていて、今さらプライドなど関係ない!」

とやたらと興奮している教師がいる。

そんな教師は辞めることをおすすめする。


叱れる子どもにも気持ちはある。
考えたことがありますか?

2013年2月11日月曜日

時間の意識

インターネットの記事で、外国人が
「日本人は時間に甘い」と述べているものがある。

始まりの時刻は守るが、終わりの時刻は守らないという。

確かにそうだ。
会議の時刻はその典型的な例だ。

教師の場合、会議もあるが、授業時間がいい例だろう。

私は、始まりに遅れることはあっても、終わりをずらしたことはない。
だから、子どもたちもチャイムが鳴ると、授業に切り替える。

こんなことを言うと、

「社会に出たら、そう終わりの時刻は決まっていないんだから……」

と言う大人がいる。

確かに社会はそうかもしれないが、そうであってはならない。
望ましい現状を体得させるのが教育の場ではないのだろうか。

2013年2月10日日曜日

体罰は法律で禁止されている。

今日の朝日新聞朝刊。
伊吹文明・元文部科学大臣の言葉が記されていた。

体罰を否定するものではないようだ。

しかし、これだけでは説明が足りないように思う。

学校教育に限って付け足す。

学校教育法第11条には、

  校長及び教員は、教育上必要があると認めるときは、文部科学大臣の定めるところにより、児童、生徒及び学生に懲戒を加えることができる。ただし、体罰を加えることはできない。

とある。

つまり、体罰が禁止されているのだ。

家庭内での教育云々は置いておくにしても、
教員である以上、体罰は許されないことなのである。

もちろん、私も子どもに手を挙げたことは一度たりともない。

それでも、今まで課題ありだった子を、わずかかもしれないが変えてきた。
そして、私のクラスにいることで、職員の間であまり話題に上らなくなった。

教育の一端とはこういうことをいうのだ。

2013年2月5日火曜日

意味が対である二字熟語集め

6年生国語(光村)に、熟語の成り立ちを学習する小単元がある。

いくつか成り立ちのパターンを学習するが、
意味が対のものは、熟語集めをすると熱中する。

最初は、簡単に「左右」という例を出す。
そういうことかと納得する。

そうしたら個人でも班でもよいから、
時間を決めて熟語集めをする。

左右 上下 前後 白黒 親子 昼夜 男女 老若
長短 大小 高低 官民 公私 生死 硬軟 広狭
……

この小単元は、これに時間を割くことで、
めりはりのある小単元になる。

全て熟語集めをしていたのでは、時間数を明らかにオーバーする。

2013年2月4日月曜日

給食時間でのドラマ

今日から立春。週の切り替えで立春とは、どこか心地よい。

よって、今日から給食当番のメンバーも変わる。

クラスで配膳しようとしたそのとき、
ある女子が箸とご飯とおかずを一緒に盛る大皿をひっくり返してしまった。
それも全員分である。

女子が「ごめんなさい!」と言うと、
「ドンマイ!」と「大丈夫?」と、そして、
助けに行こうとすぐに駆け寄る10人ほどの子どもたち。

なんと素敵なんだろう。
誰一人として責め立てるものはいない。
いただきますの前に、大いに褒めた。

もちろん、最初からこういう集団だったわけではない。
春は、どちらかといえば他人事で、口にこそ出さないが、
どこか白い目で見る雰囲気だった。

「知らん顔が一番腹が立つ」
「いざ自分がそういうときになったら、誰も助けてくれない」

どれだけ叱っただろうか。

それがもう卒業というこの時期に、
こういう形で子どもたちの姿が見られたのは嬉しい限りだ。

継続して指導したことというのは、
クラスが終わりになる頃に実るものが多い。

だから、教師はおもしろい。

「ドンマイ!」

私のクラスの合い言葉のようなものである。

長縄など、クラスで真剣に何か挑戦しているとき、
誰かが失敗したら全員で「ドンマイ!」と大声で言う。

これが表面的に見えるかもしれないが、
幾人かは「また挑戦しよう!」と前向きな気持ちになっている。

こういう言葉がじわじわと効く。