月曜日に職員室のワックスがけをするというので、
昨日金曜日に職員室の机を出した。
出張の人、年休の人、職専免の人と色々いたので、
全員でというわけではなかった。
そこで、明らかな差があった。
若手の多くは、机上こそ片付けられていたものの、
引き出しは全て入ったままであった。
中堅の多くは、一番重い引き出しだけが抜かれてあった。
(これだけでもだいぶ楽なのであるのに、若手ときたら……)
だが、今年度いっぱいで定年退職の教員は違っていた。
『全ての引き出しが抜かれていた』のである。
運ぶ職員にとってはかなり楽になるのと同時に、
そこまで思いを馳せられるベテランの心意気に感動した。
そういう心意気を若手は学んだのだろうか。
私も、何歳になってもそうでありたい。驕ることなく。
2013年7月27日土曜日
2013年7月25日木曜日
一部中学校教員の力量不足(2)
少し前、小中交流の一環で、中学校の授業を参観した。
勤務校を含め、主に3つの小学校から生徒が進学する中学校である。
この授業参観は、その3つの小学校の先生全てが参加する。
中学校の授業の、悲惨な状況を目の当たりにすることになった。
(1)授業が下手である。
教師が淡々と説明のみの講義。
私は、黒板にばんばん書かせたり、班で相談させたりもした。
それが、中学校入学の途端、その有り様である。
(2)特別活動が小学校低学年並である。
ある教室の後ろの壁面に、模造紙が6枚連なっている。
係のポスター(?)の掲示だ。
見ると、「黒板係」「電気係」がある。
こんなのは、小学校低学年で行うことだ。
小学校低学年は、当番活動=係活動で、働くことの意義を体得させる。
だから、これはこれでとても大きな教育的意味があるのだ。
しかし、中学校がこれでは呆れるばかりだ。
去年の6年生では、29の係ができた。
黒板係、電気係などない。どれも文化的・創造的なものだ。
よく恥ずかしくもなく、あんなにでかでかと模造紙に掲示できるものだ。
しかも模造紙が、中学生らしく、工夫で紙からはみ出しそうなくらい、
びっしりと書いてあるならまだ分かる。
模造紙そのままのサイズなので大きすぎて、空白が目立つ。
(3)「小中一貫」のための「公開」であることを意識していない時間割。
小中一貫のための取組だから、保護者の授業参観と違い、
我が子の様子を見に来ているのではない。
ところが、授業一覧を見ると、
「社会:テスト返却、直し」
なんていうものがある。意味が分からない。
その教科担当も、教務主任も、管理職も意識が足りなさすぎる。
そんなの公開されても、何の参考にもならない。
予め日時は決まっているのだから、時間割の変更くらいできただろう。
中学校側の認識を大いに疑う。
勤務校区に限らず、中学校の先生は、
小学校の先生より授業が下手な人が多い。
それを指摘すると、彼らの言い分は「受験のために……」である。
勤務校を含め、主に3つの小学校から生徒が進学する中学校である。
この授業参観は、その3つの小学校の先生全てが参加する。
中学校の授業の、悲惨な状況を目の当たりにすることになった。
(1)授業が下手である。
教師が淡々と説明のみの講義。
私は、黒板にばんばん書かせたり、班で相談させたりもした。
それが、中学校入学の途端、その有り様である。
(2)特別活動が小学校低学年並である。
ある教室の後ろの壁面に、模造紙が6枚連なっている。
係のポスター(?)の掲示だ。
見ると、「黒板係」「電気係」がある。
こんなのは、小学校低学年で行うことだ。
小学校低学年は、当番活動=係活動で、働くことの意義を体得させる。
だから、これはこれでとても大きな教育的意味があるのだ。
しかし、中学校がこれでは呆れるばかりだ。
去年の6年生では、29の係ができた。
黒板係、電気係などない。どれも文化的・創造的なものだ。
よく恥ずかしくもなく、あんなにでかでかと模造紙に掲示できるものだ。
しかも模造紙が、中学生らしく、工夫で紙からはみ出しそうなくらい、
びっしりと書いてあるならまだ分かる。
模造紙そのままのサイズなので大きすぎて、空白が目立つ。
(3)「小中一貫」のための「公開」であることを意識していない時間割。
小中一貫のための取組だから、保護者の授業参観と違い、
我が子の様子を見に来ているのではない。
ところが、授業一覧を見ると、
「社会:テスト返却、直し」
なんていうものがある。意味が分からない。
その教科担当も、教務主任も、管理職も意識が足りなさすぎる。
そんなの公開されても、何の参考にもならない。
予め日時は決まっているのだから、時間割の変更くらいできただろう。
中学校側の認識を大いに疑う。
勤務校区に限らず、中学校の先生は、
小学校の先生より授業が下手な人が多い。
それを指摘すると、彼らの言い分は「受験のために……」である。
一部中学校教員の力量不足(1)
1年生を担任してこそ「一人前」だが、
「華」はやはり6年生担任だ。
だから、卒業後、保護者なり卒業生なりメッセージをもらうことがある。
ほとんどは、「先生のクラスでよかった」というものだ。
しかし、昨日、不安な電話がかかってきた。
卒業生の保護者である。
決して理不尽な要求をするような方ではなく、
「うちの子がいつもすみません。」という
親として当たり前の姿を見せてくれる方だ。
その卒業生は4年生と6年生で担任した。
「小学校では、高学年になって勉強をよく頑張っていたし、
テストの出来も良いものばかりではないが、悪くはなかった。」
「中学校に入って、部活動も始まり、勉強が急にできなくなった。」
これが俗にいう「中1ギャップ」である。
個人差はあれど、これだけでは私に電話などしてこないだろう。
案の定、卒業生のことではなく、中学校の対応についてであった。
「学校生活のことで、担任の先生や顧問の先生と話をしたいが、
いつも忙しそうでつかまらない。だから、伝言をお願いしても、
何の連絡もない。」
学校生活で指導が必要な生徒がいれば、担当教科外ではどのような
状況なのか、三者面談前に情報収集するのが、担任としては当然の仕事だ。
親と一緒に教育するのだから、事前準備が必要なのは明白だろう。
しかし、その担任は、そのような事前準備は一切無く、三者面談の場で、
生徒(卒業生)に「他の教科はどうなんだ?」と問い詰めたのだという。
その保護者は、どうしてよいか分からない状態になったそうだ。
こういう中学校への不満で、私に相談の電話があった。
もちろん、こういう教師の対応は許されるべきものではない。職務怠慢である。
しかし、私は所詮小学校教員。
その子の状況を改善するに力を貸すことはできない。
「担任の先生にもう一度連絡をとってみてください。
だめそうなら、学年主任や副担任など、学年の他の先生に連絡してみてください。」
やはり、中学校生活でのことだから、中学校の先生につなげたかった。
「華」はやはり6年生担任だ。
だから、卒業後、保護者なり卒業生なりメッセージをもらうことがある。
ほとんどは、「先生のクラスでよかった」というものだ。
しかし、昨日、不安な電話がかかってきた。
卒業生の保護者である。
決して理不尽な要求をするような方ではなく、
「うちの子がいつもすみません。」という
親として当たり前の姿を見せてくれる方だ。
その卒業生は4年生と6年生で担任した。
「小学校では、高学年になって勉強をよく頑張っていたし、
テストの出来も良いものばかりではないが、悪くはなかった。」
「中学校に入って、部活動も始まり、勉強が急にできなくなった。」
これが俗にいう「中1ギャップ」である。
個人差はあれど、これだけでは私に電話などしてこないだろう。
案の定、卒業生のことではなく、中学校の対応についてであった。
「学校生活のことで、担任の先生や顧問の先生と話をしたいが、
いつも忙しそうでつかまらない。だから、伝言をお願いしても、
何の連絡もない。」
学校生活で指導が必要な生徒がいれば、担当教科外ではどのような
状況なのか、三者面談前に情報収集するのが、担任としては当然の仕事だ。
親と一緒に教育するのだから、事前準備が必要なのは明白だろう。
しかし、その担任は、そのような事前準備は一切無く、三者面談の場で、
生徒(卒業生)に「他の教科はどうなんだ?」と問い詰めたのだという。
その保護者は、どうしてよいか分からない状態になったそうだ。
こういう中学校への不満で、私に相談の電話があった。
もちろん、こういう教師の対応は許されるべきものではない。職務怠慢である。
しかし、私は所詮小学校教員。
その子の状況を改善するに力を貸すことはできない。
「担任の先生にもう一度連絡をとってみてください。
だめそうなら、学年主任や副担任など、学年の他の先生に連絡してみてください。」
やはり、中学校生活でのことだから、中学校の先生につなげたかった。
算数「問題解決型学習」子どもたちの悲痛の声
今日、6年生の先生から、算数の教え方についてお話を聞いた。
その先生は、4年生のときから持ち上がっている。
ちなみに、勤務校は毎年クラス替えがある。
あるクラスが、
「3人1組での教え合い学習」をしているのだという。
お話を伺った先生のクラスに5年生のときにいた子が、
6年生では教え合いのクラスになった。
『先生、今度のクラスで、算数100点取れる気がしない』
と漏らしたそうだ。
逆の子もいる。
5年生のときに教え合いのクラスで、
6年生になってその先生のクラスになった子だ。
保護者が
『今度のクラスでは、勉強をきちんと教えてもらえるんですね』
算数の問題解決型学習が、「思考力・判断力・表現力」を振りかざして、
一部で蔓延っている。
だが、生の声は生かされていない。
私は、もちろんそんな授業はしない。
先の春の卒業生のある女子。
算数があまり振るわなかった子だ。
最後、保護者の計らいで、子どもたちからの寄せ書きをもらった。
その子は、
『先生の授業は分かりやすかったです』と書いてあった。
100点をあまり取らせてあげられなかったが、
その子には、(社交辞令かも知れないが)勉強の意味があったのだろう。
「事実」で教育は議論されるべきだ。
その先生は、4年生のときから持ち上がっている。
ちなみに、勤務校は毎年クラス替えがある。
あるクラスが、
「3人1組での教え合い学習」をしているのだという。
お話を伺った先生のクラスに5年生のときにいた子が、
6年生では教え合いのクラスになった。
『先生、今度のクラスで、算数100点取れる気がしない』
と漏らしたそうだ。
逆の子もいる。
5年生のときに教え合いのクラスで、
6年生になってその先生のクラスになった子だ。
保護者が
『今度のクラスでは、勉強をきちんと教えてもらえるんですね』
算数の問題解決型学習が、「思考力・判断力・表現力」を振りかざして、
一部で蔓延っている。
だが、生の声は生かされていない。
私は、もちろんそんな授業はしない。
先の春の卒業生のある女子。
算数があまり振るわなかった子だ。
最後、保護者の計らいで、子どもたちからの寄せ書きをもらった。
その子は、
『先生の授業は分かりやすかったです』と書いてあった。
100点をあまり取らせてあげられなかったが、
その子には、(社交辞令かも知れないが)勉強の意味があったのだろう。
「事実」で教育は議論されるべきだ。
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